移動する羊 是楽日

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移動する羊による稽古場の一つであり、呟きの場であり、表現の場所 物語・小説・詩・遊び

目先物語 「名もなき空」 作:愛川武博


僕は居酒屋の個室で一人、知人の帰りを待っていた。彼が同じビルの地下にある、百貨店に果物を買いに行ったのだ。

「ごめんなさい。お土産を買ってくる約束をしてまして。妻と子ども達にあげる果物なんです。俺以外はみんな果物が好きで。20時までだからちょっと先に買い物に行かせてください。」

僕は一人、ウーロン茶を飲みながら物思いにふける。目を瞑る。お酒は飲まないと決めていた。そもそも飲む気になれないのだ。気を抜けば押しつぶされそうな氣庄の中にいて、僕の空は最近ずっと暗雲だ。ここまでくると、消えない雲の原因を、謎を突き止める探偵の心持ちになっている。いっちょう解き明かしてやろうじゃないかと考え始めていた。でも今の思考は、この街に来た時から感じていた違和感の正体についてだ。

〈ここは僕の居場所ではない。〉

異国。そうなのだ。電車に乗ってこの街に向かっている時から、まるで荒波を越えて違う国に入港する船に乗ったかのように、僕の頭と内臓は酔っていた。

〈電車に酔うなんていつぶりだろう?〉

東京に来たての頃は揺れの激しい総武線快速に乗るとよく酔っていた。神奈川と東京と千葉を移動するたび、国をまたぐたび、飛行機にも酔っていた僕は酔いと共に実感した。〈国境を越えるということは、それなりの負荷を得なければならないのだ。〉と。ある時期からそんなことは思わなくなったが、久しぶりに電車に酔ったことで、むしろ違う国へとやって来たのだと『無意識』に思わせたのかもしれない。異国の、己の居場所のない場所。感覚。瞬間。

いきなり居酒屋の個室のドアが開いた。何も注文をしていないからおそらく店員ではない。きっと思ったより早く彼が買い物をすませたのだろう。意外と早かった。まだ5分もたってはいない。僕はドアから入ってくる彼のことを想像する。きっと笑顔で子どもたちに渡すたくさんの果物を持って現れる。瞳は買い物が出来た喜びでキラキラしているに違いない。
ゆっくりと目を開けて、息を軽く吐きながら彼を見た。

しかし立っていたのは、黒いスーツに濃紺のネクタイ、シャツは淡い藤色と白のストライプで黒いボーラーハットをかぶった、まるでイギリスの老舗洋服店の店主のような白髪の、外国の老人であった。

ふと昔見たサイレント映画を思い出す。喜劇王と呼ばれたチャーリー・チャップリンがよくこの帽子をかぶっていた。

〈なんだか19世紀末のイギリスからやって来たみたいだ。いや。ひょっとしたらそれこそ、僕が19世紀末のイギリスに迷い込んだのかもしれない。ありえる。なんせここは異国なのだから。〉

「いや、これは失礼。」

彼は僕に丁寧に見事な純粋たる日本語のイントネーションで語りかけた。

「いえ。個室ですし、よくある間違いですよ。」

ドレスコートをした流暢に話す外国人が、こんな居酒屋に居るのは少し奇妙な気はしたが、僕は笑顔でそう答えた。すると彼は、少しはにかみながら予想外な言葉を、これまた流暢に語り始めた。

「ああ、そういう意味ではないのです。あなたのご友人ではなく、私がお邪魔をすることに謝意を表したのです。もちろんよろしければ、ですが、少しお邪魔してもよろしいですかな?」
「…あの……。」
「いえ、何、お手間はとらせません。大丈夫ですか?」
「あ、はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」

彼の重厚でいて優しい声につい同席を赦してしまった。

「あなたは、まるで知らない、異国の街に突然迷い込んでしまった旅人のような顔をしていますね。」

心臓が大きく動いた。いったい何に驚いたのかをしばらく理解できないでいた。ただ
心の底を見透かされたような気がした。瞬時に読解する。己の心臓の反応を読み解いた。

〈旅人という言葉に僕は反応したのだ。旅行者ではない、旅人という響きと意味に。〉

旅人のような顔とはどんな顔だろう。分からない。きっと心持ちを読んで言ったのだ。「心持ちが見えますよ?」ということなのだ。おそらく。そして実際のところ、僕は旅人なのだ。帰る場所のない旅をしている。いや放浪者に近いのかもしれない。
老人は微笑み軽く頷いた。

「でもあなたのその心持ちは間違いじゃない。」
「………どういうことです?」
「あなたは迷い込んでしまった。」
「今までと違う世界に、ですか?」
「いや、まさに。」
何を言っているのだろう。もしそうだとしたら、会っている彼は彼ではなく、違う国の、彼とは同じ人間で同じ経験をしたことのある、全然違う人間だってことになる。果たしてそんなことがあるのだろうか?もしそうだとしたら、僕の住んでいた世界の彼は今、どこにいるのか。僕はその疑問を抱えながら、老人の相づちに対して一般的であたりさわりがないように答えてみた。
「よく分からない、ですね。その同意の言葉に込められた真意が。」
「ここは雨の街です。」
「え?」

まさか。確かに僕がこの街に来るときは雨が降っていることが多い。でも、だからと言ってここが雨の街だというのはおかしい。

「いえ、厳密に言いましょう。ここはあなたにとって、雨の街です。あなたの心の空がこの街に雨を降らすのです。」
「……つまり…僕の心持ちに、この街の空が反応している?」
「まさに。そういうことです。いやいや、素晴らしい勘の良さですね。」
「でも今日はこの街に雨は降ってはないですよ?」
「いや、まさに。もちろん、雨になりやすいというだけで、影響の仕方は様々です。」
何がモチロンなのだろう?どうやら前提にかなりの違いがあるようだ。何より僕は、妙にひっかかる彼の口癖を心の中で繰り返した。

〈いや、まさに。〉

『いや』は礼、敬の『いや』だ。うやまうこと。礼儀。そう『うや』だ。『まさに』はつまり『間違いない、たしかに、その通り』という意味だ。

〈いや無きことこれ、はなはだし~敬いがないことが、度を超えている。まさに自分のことみたいではないか。〉

混乱している。突然の来訪者の言葉に振り回されている。僕はそれを素直に伝えた。

「すみません。ちょっと僕は混乱しているみたいです。思考が定まらないのです。」
「分かります。〝変化の中に居る〟ということは、そのぶんの負担がかかるってものです。」

変化の中に居る?僕は本当に変化の中にいるのだろうか?

「今日、あなたはどこか船酔いにも似た感覚を経験していませんか?」

再び心臓がバウンドした。

「もしそうであるのならば、それはまさに『移動した』のです。つまり変化の途中です。あなたはあなたの居るべき場所に、あなたの空を置いてきたのです。本来ならばおそらく、この街の空とあなたの空が会話をして、気流が生まれ、雲が出来て雨が降ります。あなたの中にある空は、つまり心理です。ご存知の通り、世の中は物理です。そして心理もまた物理現象の一つです。その物理現象の一つである心理が、物理に影響しないと誰が言えるでしょう。あなたの空が、この街に雨を降らす。雨男や雨女は居るのですよ?」
「……面白い考え方だと思います。でも……。」
「はい。」
「なぜそれが、僕が〝変化の中に居る〟ことになるんですか?そもそも僕は違う世界にきたっていう意味が分からない。」
「心理が物理を変える。」
「さっきおっしゃっていましたね。」
「この街の在りようを、ささやかにでも変えたのはあなたです。」
「え?」
「つまりあなたはあなた自身でつくった異国に迷いこんだのです。人は人を変えられません。キッカケを与えることが出来ても、変えることは出来ない。」
「……変えることが出来るのは己だけである。己が変え創った世界に、今、己が迷い込んでいる。」
「いや、まさに。己が変われば世界の在りようを変えることは出来る。面白いですね。蝶の羽ばたきが竜巻を呼ぶことがあるのなら、人を変えることも出来そうなものだけれど。人は人を本当の意味で変えることは出来ない。最終的に、己を変えているのは己です。これは物理なのです、よ?」

僕は三回目の『いや、まさに』を聞きながら思った。本当に僕が世界の在り様を変えたのかもしれないと。錯覚なのだけれど。

「ほんとうですよ?」

ゆっくりと彼の瞳の奥に僕は焦点を合わせる。ゆるぎない、強い光がそこにある。

「雨が降らないことが、その現れです。あなたは雨を降らさず、この街の空気を異国のモノに変えた。もっとも、それでいったい何が変わるかなんて誰にも分からないし、そもそも世界を造っている人を……」
「変えることは出来ない。」
「はい。」

彼は満面の笑みを浮かべた。僕は整理しながら話す。

「でも、雨が降らないことで、雨が降ったことで、何かが変わる、かもしれない。物理は圧倒的だから。」

頷く老人。

「物理は圧倒的だから。まさに。ただその変化がよいものであるか、悪いものであるか、それは分からないですけどね。」

僕も頷く。

「きっと、そのどちらもある。」
「いや、まさに。」

間髪入れずに放つ言葉に、可笑しくなって笑った。老人の口癖は、まるですべての現象を引き受け認める、例えばなんだか地球のように感じた。地球の本音を聞いたこともないし、そもそも地球に意思があるかどうかも分からないが、その瞬間に思ってしまったのだから、しょうがない。

何はともあれ「すべてがその通りでいいのだ」と言っているように感じたのだ。僕はひとしきり笑い、一呼吸おいてずっと疑問に思っていた質問を、僕を見て微笑んでいる老人に聞いた。

「ねえ、おじいさんは何者で、いったいなぜ僕のところに来たのですか?」

彼は軽く瞼を開くと、軽く肩を上げ、口角をほんの少し上げた。
僕はもう一度聞いた。

「どうしてですか?」

彼はちょっと顎を上げ、右側に頭を傾けて言った。笑顔はそのままに。

「ソレ、初めに聞くような質問ですよ?こんな不審な外国人の話を聞いてから、その正体を尋ねるなんて、あなたはある意味、冒険者だ。」

僕はニヤリとして言った。

「いや、まさに。」

彼は低い声で、とても嬉しそうに笑った。そして言った。

「私は、空色収集家でしてね。」
「空色、収集家?…それはつまり…写真とか映像とかを、撮るんですか?」
「みなさま、そうおっしゃいますね。でも、違うのです。私は自分の中に空を刻むのです。刻み、歩く。持ってゆけるモノは結局、己の中に在るものだけです。まあこれは受け売りですが。私は世界中の空を見てきました。そしてある時に気がついたのです。空の中には、ある特定の人間の中にある『心の空』が、その場所の空と影響しあって立ち現れる『空色』があるってことに。気づき、探し、集めていたらいつの間にか、その『空色』が、誰の心からやってくる『空色』なのかも、少しずつ分かるようになりましてね。」
「つまり僕からやってきた空が、見えた。」
「いえ空じゃないのですよ。まだ空には成っていない。空色もまだない。先ほども言いましたが、あなたの空はここにはない。私もこんなことは初めてですが、いや面白い。」
「僕の空は、それじゃ何処に?自分の住んでいる場所、ですか?」
「さて。なにせ、心の空ですからね。家に居ない事だけは確かです。」
「それじゃ、話しが繋がらない。僕の空ではなく、何を感知してあなたは僕の前に現れたのですか?」
「それは風です。」
「風?」
「はい。もっと言えば風のうず、風の螺旋でした。空氣の密度が濃いのです。氣が螺旋となってあなたの周りを巡っている。いき、苦しかったはずですよ。」
「……生き、苦しい?」
「でも、その風の螺旋は、空氣は、きっとあなたにまた素敵な新しい空を見せてくれますよ。」
「新しい空?」
「新しい出逢いと言ってもよいかもしれません。」
「……なるほど…そしてやっぱり。」
「…なんですか?」
「その事が良いものであるのか、悪いものであるのかはよく分からない?」
「はい。分からないです。」
「でもどんな空でも、空は、素敵ですよね?」
「はい、素敵です。空は、どんな空でも、まさに素敵なのです。」

老人は目を細める。左手で帽子のつばに触れ、続けて言った。

「さて、私はもう行きます。ご友人もそろそろ戻られる頃でしょうから。実はいまから人に逢うのです。私こう見えても日本に弟子がいましてね。まあ、弟子というか、同士、友人ですけどね。伝え伝えられる、大切な友人です。私よりうんと若い女性ですが、たくさんのことを教えられました。本当にオハナシできて、聴いていただいて、ありがとうございました。彼女に良い土産話ができました。」

彼は、ボーラーハットを右手で持ち上げ、深々と僕に挨拶をした。

「こちらこそ、ホントにありがとうございました。」

僕もかぶっていない帽子を取りながら、深々と挨拶をした。彼は、その言葉を聞くと頷き微笑み、個室を颯爽と去っていった。僕はふと、寝転びたくなってそのまま座席の上に横になる。天井が見える。空は見えない。でも僕の心の空は見える。気がした。相変わらず暗雲が立ち込めている。でもいい。どの空だって素敵な空だ。

幾つかのクエスチョンを、空を見ながら考える。

もうすぐ帰ってくる子どものために果物をたくさん買ってきた彼は、寝転んでいる僕を見てどう思うのだろうか?

今日ここで降るはずの雨は、今どこに降っているのだろうか?

老人の友人も空色収集家なのだろうか?

疑問が己から溢れ出して空を漂う。このままだといくらでも浮上してきそうだ。僕はそれをやめるように瞼を閉じた。思う。

行けるところまでゆこう。旅人なら旅人らしく、己の空を持って、たくさんの空と出逢えばいい。そうして新しい空を、共に創ってゆけばいい。


Fin


by moving_sheep | 2026-04-15 00:00 | 物語/目先物語 | Trackback