夜、帰ってきた時に、アパート全体になんだか違和を感じた。
A棟もB棟も、すべての部屋から人の気配を感じなかった。それはつまり、8部屋すべてに電気がついていなかったのだ。
二つ並んだアパートは、すべて角部屋であるという謳い文句で、貸し出しをしている。棟の一階に2部屋、二階に2部屋、計4部屋。ほとんどが家族で住んでいて、小さな子どもが居る家ばかりだとはいえ、まだ消灯には早すぎるのではないか?腕時計を見ると20時37分をさしていた。うん、この時間は普段なら、ほとんどの家に電気がついている。
よく考えてみたら、そういえば町内のどの家もが電気を消している。
県道から路地に入り、森林公園の横道を抜け、アパートの前に広がる八坂神社とどんぐり広場の下に通る道に入ったら、どの家も電気がついてなかった。町全体が真夜中のように感じた。いや、真夜中以上に真夜中だった。少ない街灯だけ明りが灯っていた。あまりの暗さにハイビームを使っていたのを思い出す。
まるで霧状の強力な睡眠薬を風にまいて、誰かがこの一帯をまるごと眠らせてしまったかのようだった。こういう事もあるのだろう。町内の全員が早寝をするという、ささやかなだけれど、奇跡のようなことが。
僕はあまりにお腹が空いていたので、図書館で貰った林檎を車から降りて齧った。季節じゃないけれど、図書館で入館をする列の二番目に並んでいたぼくに、先頭にいたお婆ちゃんがくれたのだ。「ありがとう。話しつきあわせて。これ、どうぞ。」とナイロンに林檎の絵がたくさん描かれている袋から出して渡してくれた。黄色と緑の混ざった林檎。受け取ると蜜でべたつく。これが林檎の醍醐味だ。せっかくだからお昼に食べようと思っていたけれど、結局、昼食も取らずにパソコンに向きあっていた。だからお腹が空いていたのだ。普段、自分じゃ買わない林檎を、僕は久しぶりに堪能し、残った芯をビニール袋に入れて空を見た。
〈民家の電気が消えたくらいじゃ、空の見え方はあまり変わらないか……。〉
真夜中のような町に感化され、音をなるべくたてないように歩いた。
駐車場の砂利の音が響く。
響く?そうか暗いだけじゃなく、眠るというのは音すらも減るものなのだね。
耳の気づきに少し感動しながら階段へ向かった。
ここ数日、階段下に並べてあった枝と石はもうなくなっていた。今朝みたのが最後のようだ。2本の小さいけれどしっかりした枝と4つの大人の手のひらで握れるほどの石。魔法の図形。陣。秘密の暗号。3日前からの階段の下にある枝と石は、まるで誰かに送るメッセージのようで。石と枝の置き方が、その都度まるで何かの形を象徴しているかのように、丁寧に位置を決めて置かれていた。
意味や意図を感じる。小石と枝にいったい何の意味を込め、意図を形にしようとしたのか。答えを知りたくなる。知る術はないけれど。
〈意味や意図や解釈を持つということは、まるで『名前』をつけるということに似ている。あるいは名前が、意味や意図や解釈を連れてくる。『伝えたい』を連れてくる。だから真に伝えたいことがあるのならば、伝わらなくてもまず『在る』ことが重要なのではないだろうか。きっと伝わる可能性は0と1ほどの違いがある。はずだ。〉
石と枝の羅列を見て思考する。
ここに石と枝をその形に置く意味は、何かを伝えたいのかもしれない、と連考する。
ならば秘密の暗号を受け取ろうと再度じっくりと眺めた。
でも僕に伝わることは、縦に2本平行に置かれた枝の左側の上から、右の枝の下へ繋げている4つの石が置いてある、そういう『形』だけだった。
〈エヌ、だろうか?〉
一昨日は2本の枝が重ね合わさり細長い×印を表し、枝の先にそれぞれ4つの石が置かれていた。ドクロのマークの×印みたいに。昨日は枝を山形の三角にしてあり、その頂点から上に石が4つまっすぐ並ぶ。積みあがった石を支える底辺のないピラミッドの枝。見事に3日間とも違う図形だ。意味や意図や解釈がないとは到底思えない。
何かのメッセージだとしたら、いったい何を表しているのか。少なくとも僕には理解出来ないモノだ。ひょっとしたら子どもたちの中での暗号なのかもしれない。暗号ゲームだ。しかしゲームだとしても、そのゲームはどうやらもう終わったみたいだ。
僕は階段を登り、小銭入れの中に入れてあった鍵を取り出すと、二つある鍵穴に一つ一つさしこんでドアを開ける。半分ドアを開けたまま靴を脱いでから、ドアを閉めて鍵をロックする。パソコンの入ったバックパックをおろして玄関に置き、しゃがんで靴の向きを変えた。
その時だ。
タイミングが良いというか悪いというか、玄関の呼び鈴が鳴った。
僕は覗き穴から外を見るクセがなく、つい確認もとらずにすぐドアを開けてしまった。
そこには一人のノームがいた。
正確にはノームだとしか思えないような人だ。
ノーム。
それは地下に住んでいて、手が器用で貴金属の装飾品を作ったりする妖精である。背が低くて、老人の姿をしていている。でも彼は老人ではなく若い青年のようだ。背は低いが、堂々とした風格みたいなものを持っている。
頭には瑠璃色の布を巻つけ、濃紺の胸元が開いた綿生地の長シャツの下に同じような山吹色のシャツを着ている。シャツには淡い緑色の唐草模様が胸元から腕やみぞおちあたりに伸びている刺繍がしてある。
斜めにかけた革製のリュックはそれほど大きくはないが、背の低い彼が背負っているととても大きなリュックのように見えた。
腰にはこれまた革製のベルトといくつもの革ひもが巻かれてある。ズボンは足元に向かってワイドになっている。瑠璃色の生地に、濃紺色の森が裾の方から刺繍されている。よく見ると森の木々には細かい葉が深い緑色で描かれている。
なんて細かい丁寧な仕事だろう。
足には柔らかそうで、でも厚手でしっかりしているだろう赤茶けた革靴を履いている。靴下も履いているのだね。
彼は少し肩を上げて複雑そうな笑みを軽くすると言った。
「こんばんは。」
僕は応える。
「こんばんは。用件はなんでしょう?」
彼は大きな目をさらに大きく見開いた。まるで想像していないような答えに、どうやらビックリしたようだった。
「なんでしょう、だって!?無礼じゃないか。君が招待したからここに来ているんだ。こちらこそ〝なんでしょう?〟だよ。それはいくらなんでもあまりに無礼じゃないか!」
「え、ごめんなさい、僕があなたを招待した?」
「そうさ、この辺りで眠っていないのは君だけだ。招待された我々はそれなりに大騒ぎをする。うん、そう、迷惑だ。だからせめてもの誠意に、ネムネムの木で作られた癒しの薬〈羊のあくび〉を風にまいて素敵な眠りをプレゼントする。ちょっとやそっとじゃ起きない。朝まで起きない。その眠りを回避するにはリンゴを食すこと。ぬしのその袋に入っているのはなんだ?」
「リンゴの芯です。」
「ケヤキの木の枝と小石で最後に記した終わりの〈しるし〉はなんだ?」
「……エヌ…N、かな?」
「ゼットやZ。終わりの記号や。準備万端の合図や。だから今夜きたんやで!」
言葉使いが訛ってきた。
「なるほど。確かにNじゃなくてZかもしれない。」
「そう、つまり君が僕を呼んだ!なんて無礼な奴だ!だいたい〈羊のあくび〉はたくさんは作れないし時間もかかるから、もうないんだよ?なんてことだ。僕の宴が………。帰る!もう帰る!帰りたくないけど帰る!」
「ちょっと待ってください、僕に確認と伝えるチャンスをください。」
「なんだと!?それはあれか、まだぼくがラーメンを食べられるかもしれないということか?いや、別に期待などしてないぞ。〈おもてなし〉?君たちは素敵な言霊を持っている。でもそんな期待や希望で赦してやるものか!」
どうやらかなり頭に血がのぼっているみたいだ。言っていることが支離滅裂だし、足を踏み鳴らしたり、大げさな手振りをしたり、たまに腕を組んで本当に残念そうにしたり、せわしない。
彼のそんな自分の気持ちにまっすぐな姿を可愛いなと思いながら、僕は丁寧にまっすぐ伝えた。
「あの…僕じゃないんですよ。」
「ん?」
「僕があなたを呼んだのではなく。いやむしろ誰も呼んでいない、可能性のほうが高い、かもしれません。」
「……どういうこと?」
「こんな偶然なかなか起こらないと思うけど、起こってしまった以上、きっと意味があるんですよ。聞いて貰えます?」
彼は思考を5秒ほど巡らして、まるで素直でまっすぐな子どものように頷いた。僕は彼を「さささ、ここではなんですから、どうぞ中へ」と言って部屋にあげ、彼が好きだというコーヒーを一緒に飲みながら事のいきさつを説明した。自分がまるで関係なく、いくつかの偶然が重なりこういう事になったのだと。
「ちなみにまるで始まりの合図みたいに、3日前に逢魔の刻に1時間ほど歌が響いていたのもか?」
3日前?6月19日?その夕方に1時間ほど?そうだ僕は修理業者のおかげで気分が良くなり、夕食を作りながら、その場で作った出鱈目な歌を、ずっと歌っていた。それからサイクリングに出かけたのだ。思い出した。
「うん。偶然ですよ。でもよく聴こえたね。」
「大地は音楽すらも肥やしにするのさ。それも人間の作った音楽プレーヤーよりも生音のほうが断然よい。歌の振動は魂の振動と繋がっているからね。大地も豊かになるし、大地が豊かになれば僕たちも豊かになる。ぼくらは大地の妖精だからね。ちなみにぼくも歌は大好きだ。よく歌ってる。歌は魂だよ。」
それはさぞ素敵な葉音を、風と一緒に奏でる植物が育ちそうだな、と思った。
「君はいったい何処に住んでいるのかな。」
僕はいつの間にか敬語をやめていた。どうやらこの大地の妖精に、知らず知らずのうちにだいぶ心をゆるしているみたいだ。
「もちろん大地の下さ。そこにある神社にちょっとした小さな丘があって、いくつかの樹木が砦みたいに根を張っている場所があるだろう?あそが入り口なんだ。」
確かにある。それは神社の杜の中にある、小さな森に思えてた場所だ。
「最近引っ越してきたんだ。そしたら歌が聞こえてきた。2時間も歌を歌うなんて、宴の始まりだと思わないワケないだろう?」
そうなんだ?面目ない。
「そしたら翌日からは枝と石の文字共振さ。」
「文字共振?」
「形には意味があって力がある。形は振動している。この世のすべては振動しているからね。文字を形作ればそれは振動となって伝わるんだよ?」
「なるほど。その振動が君にメッセージとして届いたんだね。」
「そういうことだね。しかしなんて偶然なんだ。僕はすっかり今夜は宴をするつもりだったのに……。」
「やろうよ。」
「……………え!?」
「ラーメンも作るよ。好きなんだろ?」
「なんと!?ちなみにだけれど、漬物というモノもあったりするかい?いやあれもなかなかの絶品だよね。」
「あるよ、出そう。ぬか漬けと言って、これまた偶然なんだけど最近自分で作るようになったんだよ。」
「なんだって!?素晴らしいじゃないか。これは偶然ではない。逢うべくして逢ったのだよ、ぼくらは。君とはよい友達になれそうだ!うん。ぼくの名前はシス。君の名前は?」
「蒼。」
「蒼か…うんうん。よし蒼、宴じゃ宴じゃ~!」
そうして僕らは一晩中飲み、食し、歌い、踊った。なんせこの一帯のみんなは深い眠りについている。気がねなく窓も開けて、風を感じながら心ゆくまま大騒ぎをした。家にある食料とお酒はすべて底をついた。ほぼ彼が食べたのだけれど。
「ここは風の妖精シルフの匂いがする。いつか逢うかもしれないけれど気をつけろよ。ちょっとクセのある奴らだからな。」
君も充分クセがあるけれどね、と思ったが、「気をつけるよ」と返した。それでも彼が真面目な顔して一生懸命に伝えるのが可笑しくて、ついつい笑ってしまった。
朝方、陽が昇るちょっと前、彼はお土産用に一つだけ残してあったキリンのマークがついたインスタントの袋麺を胸に大事そうに抱えて帰っていった。
またいつか一緒に宴をすることを約束して。
Fin