「実存しないんだよ?君の恋も愛もさ。」
彼女は一七八〇円もする巨大なパフェを食べながら言った。僕は少しだけ飲めるようになったコーヒーをすすりながら軽く頷く。そうか、この気持ちは実存しないのか、と二十三歳の僕は素直に思い、少し顔を落とした。彼女の小さく息を吐く音がする。口へ運ぼうとしていた生クリームのスプーンをグラスへ戻し、僕の瞳をのぞき込みながら小さく何かを呟いた。でも言葉は僕の耳に届くことはなく、再び手にしたスプーンの上に乗った生クリームと共に、彼女の中へと入っていった。「ごめん、聞き取れなかった、なんて言った?」と聞き返したが、黙々と一口一口を噛みしめていた。彼女にはこういうところがあった。瞬間を逃した者に対して、救いの手は差し伸べないのだ。おそらく僕は彼女の放った言葉を一生知ることはないだろう、とずっと思っている。「瞬間を殺さないようにね。」口癖だった彼女の言葉は、今でも日常の中で生きている。
その彼女から真夜中に電話がかかって来た。
数年ぶりに。
僕は長いこと携帯の電話番号を変えていない。アドレスもそうだ。いつか誰かがふと思い立ち、電話やメールをしても失望しないように変えていない。もっとも連絡がくることはほとんどないのだけれど、稀にこういう事がある。懐かしい彼女専用の着信音は、彼女が結婚するまで、恋愛で何かあるたびに呼び出された二十代の感覚を呼び起こす。手を引っ張られたかのような、強引な引力の発動だ。
上半身を起こし、壁掛けの時計を見る。二時十五分。なるほど相変わらずだ。変わらない。きっと今でも彼女は我が道をひたすら歩いている。まさか今から呼び出されることはないだろうけど、そのまさかがあるのも彼女だ。振動しつづける折り畳み式の携帯を片手に、眠気を覚ますためにベランダへ出た。濃紺の空が広がっている。雲はちょうど月を隠している。充分に今が夜中だということを腑に落として部屋に入ると、九回目の呼び出しコールの後に電話に出た。コール十回、留守電にならない限り彼女が待つ数字、そのギリギリを狙ったのだ。
「久しぶり。」
彼女の第一声に、謝意を期待していたわけではないけれど、まるで悪びれもしないいつもの声に、静かに丁寧に、でも流暢に思いの丈をつい長々と語った。
「久しぶり。うん、かなりの久しぶりだ。あまりに久しぶり過ぎるのに、まるでその久しぶりが一週間ぶりくらいの〝久しぶり〟のニュアンスを含んでいることに若干の驚きと、君らしさを感じて安心する自分に対してちょっと怒りも覚えるくらいだよ。さて、どんな用事だろう?こんな夜中に。それも十年ぶりに電話をかけてくるなんて。それこそよっぽどの大事件じゃない限り赦されるものじゃないと思うけれど、どうだろう?もっともこんな身勝手な夜中にかけてくる電話を僕が赦すと君が思っているのなら、君の判断と考察は正しい。たいていの場合、赦す。しかし草臥れているはずなのに、眠ろうと思っても何故だかまるで眠れない中やっと眠りについたことを鑑みると、ここは君を赦すべきではないと冷静に考えてしまうのは、身勝手な考え方であろうか?」
「相変わらずメンドクサイ。」
「相変わらずは、君だよ?」
「それに十年じゃない、九年と七ケ月ぶり。」
「それは失礼した。」
「ねえ。」
「なに。」
「話、聞いてくれる?」
「聞かないと言っても君はいつも話すじゃないか。」
「そうだけど。」
「なら、好きなだけ話せばいい。」
「でも今回はあなたの確認が必要なの。」
「え?」
僕の確認?そして違和感だ。『あなた』?『君』ではなく?
「あなたは、私の話を聴く、心持ちはあるの?」
奇妙な言い方、言い回しだ。僕は言いたいことを言った。これ以上、話すこともない。あとは電話をかけてきた彼女の話を聞く、それだけだ。そもそもどんな時間に電話がかかって来ようと電話を取ったってことは、話を聞く意志があるのだというのを彼女は分かっているはずだ。でも僕はその奇妙さのせいか丁寧に答えた。
「うん。僕は、君の、話を聞くことについてやぶさかでは、ない。」
彼女は電話の向こうで軽く息を吐いた、かのように思う。定かではない。それ程ささやかで小さな呼吸だった。いつもの彼女の呼吸。
「ねえ、これはあなたにまつわる大切なおハナシなの。だから心して聴いてね。」
「なんだよ、恐いこというじゃない、かい。」
「冗談じゃないの。いい?」
語気が少し強くなる。どうやら僕のことを心から心配してくれているようだった。心持ちを切り替える。瞬間を殺してはいけない。僕は素直に強くハッキリと言った。
「分かった。心して聴く。だから話してくれ。ただでさえ眠れなかったのに、聴かないなんて逆に気になって眠れない。なんだい?」
「……あなた昨日、正確には一昨日、六月二十日、何かに気がついたでしょ?」
気がつく?
「人生において、気づきのない日はないと思うけれど?」
「なに言ってるの。気づきのない日々をおくるなんてことは世の中じゃザラにあることなのよ。気づきっていうのは一つ二つ、意識のレベルを上げるってことなんだから。気づいたとしても、気づいたことに気づかないで、そのまま忘れて気づきにならない。」
「なるほど。そこまで考えたことはなかったけれど、そうかもしれない。いやね。僕はただ幾つかの気づきがあったってことを暗に言いたかっただけなんだよ。」
「つまり明確に思考の領域までやってくる気づきがあったってことね?」
「難しい言い方するね。すごく咀嚼するのに時間がかかるよ。驚くよ。君は昔から妄想と言語選択が奇妙で困る。」
「あったの?なかったの?」
「うーん、まあ、色々気づいたよ。それがどうしたの?」
「……あなたが気づいたこと、忘れなさい。」
「え?」
「聞こえなかったの?あなたの気がついたことを忘れなさい。」
「いや、聞こえたよ。そうじゃなくて、何故、だい?むしろそっちの方の〝え?〟さ。」
「私が天文物理学者なのは知ってるよね?」
「もちろん。前と仕事が変わってなければ、今はイギリスに居て、大学で生徒たちを教えている。つまり今、君と僕の間には7時間の時差があるから、日付け的には〈昨日〉から君は僕に電話をかけている。あ、サマータイムがあるかな、もう?どちらにしても授業はもう終わっている。仕事も終わっている。終わって、のんびりしている。合ってる?」
「ほぼ合ってる。のんびりはしていない。いい?簡単に説明するよ?」
「はい。」
「私の大学の同僚に月の研究をしている人がいるのよ。宇宙放射線被ばく線量から月に安全な放射線防護空間をどのように確保するか、とか、そんなことをね。他にも色々と。とにかく月にまつわる研究。その彼がね、短い手紙を残して失踪したの。」
「失踪?」
「そう。」
「退職じゃなくて?」
「このまま退職することにはなるかもね。」
「あ……ねぇ、ひょっとして君とは仲良かったのかな?」
「それなりにはね。どうして?」
「ひょっとしたらストレスがたまっていたんじゃないかなって。きっと夜中の2時過ぎに電話がよくかかってきてたんじゃないかな。」
「こら。私、本気で話しているんだけど?」
「ごめんごめん。あまりに深刻なハナシだから、ついね。」
「そういうとこよ、昔から。重い話を重く受け止めることも大事だよ?」
「………それで?」
「それで、その手紙になんて書いてあったと思う?」
「さあ?僕の名前でもかいてあったんじゃない?」
「……その通りよ。」
「え?」
「あなたの名前と〝月の龍〟。」
「月の龍?なんだいそれは?」
「満月の晩に、あっという間に大木に成長する樹木。木というより太いツタみたいな植物かしら。その姿が月を目指す龍のように見えたから、そう呼ばれているみたいよ。」
「さて。君は天文学者で、むしろ知らないのかもしれないから言っておくけれど、そんな植物は、存在、しない。ジャックと豆の木じゃないんだから。」
「そのモデルになった植物よ。」
「まさか。モデルになった植物はカスタノスペルマムって植物だ。別名オーストラリアビーンズ。オーストラリア産の植物だ。聞いたことがある。」
「そうね。そう言われているけど、実際は違う。」
「実際は、違う?本当に?」
「だってそもそもイギリスの民話で、イングランドのアルフレッド大王時代。西暦800年後半のハナシよ?オーストラリア大陸が発見されたのが1600年初め。時代がまるで違う。」
「詳しいね……。」
「月の龍は、イギリスとタイの王族と日本の皇族にしか管理を赦されていない植物なの。」
「なんだか壮大なハナシになってきた。」
「……ねえ、いったいあなた何に気がついたの?」
「え?」
「手紙には、彼の気づきが世界の在りようを変えるかもしれないって書いてあった。」
「僕が気づいたのはささやかな事だよ。」
「ほんとうに?」
「たぶんね。それに重大なことだとしても君には言わない。」
「なんで?」
「とても個人的なことだから。何より、もしそれが本当に大変なことだとしたら、君は知らない方が巻き込まれないで済むワケだからだね。もっとも今の世界は、個人の名前なんて場合によってはあっという間にインターネットでたくさんの人に認知される。そんなことが簡単に起こるものだよ。たいしたことじゃない。つまり彼が僕の名前を知っていても不思議じゃないし、まるで妄想のような植物の噺も彼の妄想かもしれない。月の龍のこと、彼から聞いた話じゃない?」
「……ねえ。」
「なに?」
「あなたはいつもそうやって……ううん、なんでもない。いい、20日のことは忘れなさい。それが私のあなたに対する友情よ。」
「友情?」
「そうよ。」
「……分かった。ありがとう。僕は2024年6月20日の、特に夜に気がついたことを忘れるよ。少なくとも忘れる努力をする。そもそも不毛な気づきなんだから。本当に。」
「………うん。」
「うん。ありがとう。それじゃ。」
そう言って電話を切った。
切り際に彼女は「元気で。何かあったら連絡を。」と言った。暗闇の中で、街灯の明りをぼんやりと見ながら考える。僕の気づきがいったい何に成るのだろう?たいしたことは気づいていない、と思う。そもそもとても強く気づいたのは、己の心の中にある〝想い〟くらいだ。月の龍に関係するような、そんな大それた気づきなんてない。気づいたのは、自分が思った以上に恋をしていたということぐらいだ。恋をしている。相手は空を眺めていた一匹の猫だった。出会いは一か月前のこと。ベランダの下の屋敷の瓦に座って空を見ている猫に出会った。
この辺りの地主一族の興ノ松家の屋敷がある。丘の上の端に建てられたアパートのオーナーも興ノ松家であり、丘の家も、下の家も興ノ松家だ。そもそも知っている限り、少なくとも数キロ範囲内で興ノ松家の一族の表札がかかっている。特に下の屋敷は大きく、小さな森を有し、その広大な土地で何匹の猫を放し飼いにしている。もしくは棲みついているのを、放置している。
その猫は突然現れた。今までも新しい猫がやってくることはあった。仔猫も生まれる。でも今までの猫とは違った。ふわふわとした真っ白な毛の猫だけれど、長い尻尾の先端半分だけ、黒と茶色と橙と黄土の色に染まっている。猫はずっと空を見ている。朝も昼も夜もずっと、ただひたすらに空の何かを見ている。空を見ている猫は、僕には人間のように見えた。
〈空に恋をしている猫〉の重力に僕は引っ張られる。
この世の存在はすべて引力を持っている。どの引力に自分が引っ張られるかは、その存在に真っ向から向き合ってみないと分からない。向き合わなくても、時に圧倒的な重力で、関与してくることもある。引力に引っ張られるその現象を、人はきっと恋と呼ぶのだ。一昨日、いつものように鬼瓦の上で空に恋をしている一匹の猫を見た時に確信したのだ。僕はその猫に恋をしていると。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
———その猫が実はただの空ではなく〝月〟を見ていたとしたら?
彼女の言っていることと関係があるのかもしれない。考えてみると、確かに一昨日は三日月が昇っていた。今朝も白い月が昇っていた。夜も青い月が昇っていた。今日も猫は朝も夜も空を見上げていた。僕はベランダに出て、濃紺の空を見上げた。探す。月を探す。雲が覆っている。見えないかもしれない。
———どうかしている。怪しい噺の怪しい手紙。そもそも彼女が僕の名前を同僚に何かの拍子に話したのかもしれない。それを覚えていて、失踪する前に理由は分からないけれど、書き残した。そう考える方が……。
居た。ベランダの左、隣のアパートの上に月がぼんやりと現れた。瞬間、台風のように寂寥が襲ってきた。気圧が下がる。頭が重くなる。数多の今まで関わってきた人々の顔が浮かぶ。捨てた関りを思う。月に恋する猫が鳴く。心の底から溢れた言葉を口にする。
「君が生まれてきてくれて、ありがとう。君に出逢えて、本当に、良かった。」
———忘れよう。
猫に恋するなんて馬鹿げている。雌か雄かも分からないうえに、もっと近くへ行きたいとか倒錯している。いや、これはこれで正常なのかもしれない。好きな物を好きだと、恋焦がれることだってあるじゃないか。そう、ただ引力に引っ張られている、だけ、なのだから。離れていれば忘れる。捨てたのだから。捨てるのだから。自分の心を揺れ動かす、あらゆるものを少しずつ断捨離してきたのだから。捨てよう。恋心なんて、最たるものだ。忘れよう。その時、再び電話が振動した。今度はすぐに通話ボタンを押した。
「ひょっとしたらまた電話をかけてくるかもしれないと思ったよ。君はいつだって語り足りないんだ。あるいは訂正することでもあるのかな?早いからね、思い直したら行動が。」
「うん、ある。」
「なに?」
彼女は強くそして優しくこう言った。
「忘れないほうがいい。きっと君は忘れない方がいい。もし大変なことになったら私が助けてあげるから、忘れない方がいい。君に〝なかったことにする〟は似合わない。」
「……本当に勝手だね。」
「そうよ。私は夜中の二時に二回も電話をするくらい勝手なの。」
「ありがとう。」
「え?」
「あやうく僕は大切なことを〝忘れる〟ところだった。捨てたのは、大切なことを大切にしたいからなのに、大切なものまで捨てたら、それはもう僕じゃない。」
「…ねぇ。ほんとうに、何かあったら電話しなさいよ。」
彼女はそう言って電話を切った。空には月が昇っている。いつだって昇っている。見えるか見えないかだけで確かに存在する。僕は月が好きだ。月を好きな猫が好きだ。
眼を閉じて、その引力に身を任せてみた。刹那、僕は樹木で、すごい勢いでその月を目指し伸びる龍になった、かのような錯覚におちいった。
———僕は月の龍だ。
ゆっくりと瞼を開いて、いつものように深呼吸をした。何かあるたびにいつも、僕は深呼吸をする。空の気を取り込む。樹木の呼気を取り込む。己の中の気を世界へ放つ。言葉を響かせる。
「忘れない。捨てたのは形だけ。持ってゆく。ただ、ずっと、きっと。」
部屋に入り、ベッドに横になるとあっという間に深い眠りについた。意識が深く沈む前に、僕は今日の物語の題名を心に記す。タイトルは意識と同じように落ちていった。
Fin