ここ数日の目先を読み返した。引っ掛かりがないなと感じた。感想しか生まれない、いや感想すらなく「なるほど…そうなんだ…」としか出てこない自分に「これ、書いている人がむしろ使えてないんじゃない?ルーティンじゃない?」と思考した。
誰かの書いた目先を目先するのは〈使う力〉が大切な事なのである。だから目先目先を読めば(聞けば)、使ったのかどうかがそれなり分かる。感想ではあるのだけれど感想じゃない。能動が発動するから自分が動いた形が強くなる。だから目先目先をしている側の、聴く読む視る使う伝えるが大事になってくる。
つまり自分の目先を読んでいる僕もまた使わなければならないのだ。同時に始まりの動も大切で。〈目先〉は、役者の能動を育てる稽古が始まりだったから。
だからこそ自分の目先目先をして「最近の己は様色を使えていないのかもしれない…」と「書くも読むも動かしていないのかもしれない…」と感じ考え。
ゆえに思う。
「もっと新しい表現を探さないといけないのかもしれない。そのためには文化に逢いに行くしかない。本に逢いに行くしかない。それは書物であり人物。〈本〉だ」
『書と人の記し、つまり〈本〉に、君は逢いに行かなければならないよ?』
何という風の強さだ。春一番からの春の嵐じゃないの?報告でしかないような目先だとしても記したい。
「風が強いから洗濯物が飛びそうだ!」
飛びました。
回収しました。
くぅ。
「堂々と生きる。堂々と死ぬ。そういう人はなんと堂々としていることか…」と、堂々と人を騙しほどこし搾取し与え与えられ贈り贈られる人々を見て思う。
堂々は堂々を連れてくる。
善くも悪くも。
堂々より動々で目指したい。
そして働々はしたくない。
奴隷はつらいからね。
とはいえ気づかないだけで、僕らは囚人ではあるのだけれど。何に囚われるのか?好きや推しや愛に囚われるのならばヨイ、のかもしれない。そして僕は囚われを移動する。羊だ。と思うようにしている。うむ。
「人生50年だと思って生きよう」と考えた。それこそ戦国時代のように。「今の世の中、まさにそう思うべきではないか?」と。「それ以降はオマケなのだ」と。
そのように思えば未来は冒険世界。
闇の時代が加速したとて。
謳歌すればいいじゃない。
終わりまで。
遊びだ。
遊ぼう。
むしろコレカラ。
これからムシロ。
愛川武博