移動する羊 是楽日

kohitsuji.exblog.jp

移動する羊による稽古場の一つであり、呟きの場であり、表現の場所 物語・小説・詩・遊び

『本と音』~2025年5月21日(水):目先想創


しばらく前に『文章を音で読む人、読まない人』という記事を読んだ。
自分はどうだろうと考えてみて「音で読むな」と思った。思っていた。しかし今日ずっと資料を読んで、たくさん読んで、「あれ?音で読んでない!」という事に気がついた。
驚き。音で読まない人は、視覚で情報が入ってくる人が多いらしいのだけど、自分もそうだったのだ。
そこではたと「いや待て。そもそも資料は情報をいかに早く処理するか、だから、視覚に頼る。でも小説だと違うのではないのか?」と考える。思い返せば確かに小説を読むときは違う。かつ、小説のジャンルでも違うかもしれない、と思った。
一人称だと音や音色処理が増える。三人称だと、減る。しかし三人称でも、作品によっては増える。一人称的な三人称書きだと、音読みが増えるように感じる。とはいえ、完全なる神視点の三人称でも逆に、朗読劇的に音声が発生する。
つまり僕は〈本〉によって使う場所を変える。もっと正確に言えば『相手(本)によって使う場所のパーセンテージが変わる』のだ。
「ああ、そうか、僕は人間と向き合うように本と向き合うのか」そう思った。基本的には全部使っている訳だ。
音色で向き合える人もいれば、視覚的に発信する人もいるし、足りない音色を補填したり、視覚情報を駆使しないと相手の無意識が語る大切を汲み取れなかったりするから、全力で細部までしっかり見るとか、する。
本だって同じだった。
合う、合わないもある。最初は苦手でも得意になったり、すべてを全力で使わないと理解できなかったり、自然体で向き合えたり、最初は面白くてもいつの間にか楽しめなくなったり、する。理解した。
自分で脚本を書くとき、台詞は必ず音を意識する。口にする。だから時に、役者が読んでいると、意味が分からないようなことにもなる。でも口にすると繋がったりする(らしい)ので、後々に「音にして読んだら理解出来ました」と言われることも、ある。くらいに音で書く。音色を考える。
小説の場合でも音は、リズムは、メロディは大事。だから句読点に右往左往するのだ。きっと〈書く人あるある〉だと思うけど、場合によってはその句読点一つが、作品の中で大きな意味を持つ。と思っている。節がある。
もちろん映像も、映像伝達アプローチもすごく考える。絵としての句読点でもあるし、改行でもあるし、漢字やカタカナやひらがなも絵として画面に配置する。やっていることは舞台と同じだ。形。色。動。空白。密度。匂い。音。あらゆるアプローチと意識がある。
「本の読み方、アプローチ、姿勢変化も、一つの『読書』なのだなぁ……」
数多の資料を朝からずっと読みながら腑に落ちた、本との向き合い方でした。
それにしても資料……膨大過ぎて、メゲている、我。うふふ。しばらく情報の海で生きることになりそうです。


愛川武博


by moving_sheep | 2025-05-21 23:59 | 目先そうそう | Trackback