2024年 03月 30日
『と。』~2024年3月30日(土):目先想創
僕は『呼ばれる』のだ。
何より呼ばれたら、それなりに『聴いている』し『反応して動く』し『出逢っている』のではないか、と、最近思っている。
呼ばれて、聴いて、あるいは感受して、それに気づいて、もしくは気づけるような機会(明瞭さ)を貰ってギリギリだけど手にして、いるように感じることが多い。
自転車に呼ばれるとか、誰か(遠く離れている人、僕を思っている人、何かを強く発信している人、等々)に呼ばれる、とかの劇的で大きな呼ばれ方をすることよりも、日常の些細なことの方のが、より実感と強度を感じる。
大きな強い『呼び』は反応もしやすいしけれど、些細な『呼び』は弱いからこそ、呼ばれて出逢ったりすると『呼ばれている』実感が強くなる。
ふとそのことを思い出したのは夜、映画を観て食事をして車で帰ってきた時、駐車場の端っこで、朝にはベランダにあった植木の植生が書かれてあるポップが落ちているのを見つけた。
「これ、うちのだ……」と、風で飛ばされて遠くへ行っていたのだ、と、理解する。
そのまま掃除され、サヨナラだったのに、何とか気づくことが出来た。
みたいな些細なことが、それなりにある。
同時に逆もある。
自分が世界を呼ぶ、である。
言葉を変えれば、引き寄せ、というのかな。
その両方があるのが『世界と一緒に創る』になる、と、思っている。
つまりこちらが世界をしっかり受け入れ引き受け向き合うと、世界が助けてくれる。
これは野外作品や散歩作品や野外撮影でもよくあるし、日常の日々の散歩でも、物語創りでも、ある。まるで打ち合わせしたかのように。なる。
ただ、問題もあるのだ。
その『呼び』は悪いことでも発動する。
悪意でも発動する。
略奪者の欲望にも反応する。
見極めないと、いけない、ということだし、時には閉ざさないといけない。
呼ばれるのが、求められるのが、必ずしも良いことではないのに、ついつい「いいか」と受け入れてしまう所がある。
何度も、ある。
色々な局面(仕事や趣味……等々)である。
一つ具体例。
超能力者ではないので、物理的に「ああ、この人を内側に入れてはいけない」と傾向と心理を鑑みながら判断するのだが、周りの意見(状況)を聞いて、要望(一緒にやりたい!とか)を聞いたりして、何より相手が望むので「きっと大丈夫だろう。そこまで酷いことにはならないだろう」と受け入れると、その人は本当に酷いことをする。自覚がないのが更にオソロシイ。自覚はあるのかもしれないが、あるならなおさらその在り方で生きているのがオソロシイ。見ていると、実際それからもそういう仲間で固まって楽しそうにしているので、自覚があるから、それでヨシだからなのであろう、と、いうところへ着地する。
だいぶ反省した。
文化が違うというのは大前提だけれど、その前提で共に新しい文化を創れないのなら、やはり関わるべきではないのだ。
己の文化の独善をベースに、正当をあの手この手で行使するので大変なことになる。
僕は公には(さすがにかなり狭い範疇ではその分析や思いを語るけれど)かなり黙っていることが多いので、更に加速する。
共犯が集まっているのを遠くから眺める。
尊重をしたいし、そもそも素晴らしいと思っているところはあるし、評価がゼロの人なんてほとんど居ないから、有るモノを在るモノを無かったことにはしない(でもだいたい相手は無かったことにする…少なくとも自分に都合の良いところだけあったことにする)ので、より大変な思いをする。
だから関わらないことは大事。
関わらなかったら、殺し殺されるってことも減るのだから。お互いに、良い。でも殺したいが強かったら、むしろ巧妙にでも関わってくるのだろうけど………。とほほ。
反省したのだ。
だがここで「しかし」で、ある。
呼ばれているのを聴く、ように、結局呼ばれたら何かしらの反応をしてしまうし、そもそも聴くこと視ること伝えることを大事にしたいとは思っているので、己にとってのヨシアシに関係なく、関わってしまう、関わろうとしてしまう、のだろうな、と、思っている。
きっと皆も呼ばれているのでしょう。
呼んでいるのでしょう。
そこで創っているのだと思います。
だからあとは〈気づき〉の問題だ。
気づきって、本当に財産。
リスクもあるのだろうけど、呼ばれることに気づく日々でありたいなと、やはり思うのです。
というわけで、これからも、呼ばれたら、可能な限り耳を傾けていけたらな、と、思うのでした。
そして同時にいつものように不安になるのでは、ありました。
明日には、その在り方を、失ってしまうかもしれない。
と。
愛川武博
by moving_sheep
| 2024-03-30 22:48
| 目先そうそう
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