『正義は絶対的、悪は相対的なのだ』~2023年10月17日(火):目先想創
真実が人の数、近くある(世の中は十人十色ではなく十人七色、四割は一緒だったりするのが現実で、その四割を一般的とか普通とかって言ったりするように、なる)ように、正義も人の数(近く)ある。
実際的というか。
物理的に、存在しているから、主義はさておき。
そして誰かの正義は認めにくいもの。
何故なら正義は真実と同じで、その人の中にある絶対的なものが始まりだから。
「正義は人の数だけある」って考え方は、相対主義として語られる訳だけど、実際は法があって、その法が集団としての『正義』になる。
大きなモノと小さなモノを一緒に考えるのは問題が起こるから、個人のハナシから思うのだけれど、やっぱり正義って絶対的(意:他と比べようもない状態や存在であること~からの「絶対的評価」という考え方~集団や組織の成績に左右されることなく「個人の能力のみ」を評価すること~を経由しての“個人”を指している≒個人的)だと思うの。
悪はだから、相対的なのよね。
誰かにとっての悪。
正義はいつでも個人、絶対。
集団になるとまた変わるけれど、でも基本的には集団でも個人化はする訳で。
独裁国家や宗教国家だけじゃなく、資本主義でも起こりうる。
家族。
コミュニティ。
組織。
国、があるから。
一丸になって国を守ることはある。
危機的、大きな事案の時には、人は寄る。
相対的絶対になる。
他者が居ないと成立しないこの世界で、正義はいつでも、色々な意味でも絶対的なモノであるのだ。
正義は圧倒的に正義を主張するから。
人を殺すから。
僕はそう思う。
だから僕はよく言葉にする。
『世界には悪しかいない』『世界は悪で出来ている』。
僕も今だって誰かの〈悪〉なのだ。
もっともこの世の物理に善悪はなく、人間の中でしか善悪はない。
善悪は人間の中で法を創った。
この宇宙に法則はあっても、法はない。
法則を、真似て創ったのが法だから。
そう思っている。
僕はある人のTwitterを読んで(ほとんど見ないようにしているSNSを、たまに事務的な作業の過程で目に入ることがある、今回の、ソレで)、改めてそんなことを考えたのでありました。
正義はいつも、どこかに悪を断罪する力を有している。
よくもわるくも。
愛川武博

