目先物語 「Wooltime.Voice」 作:愛川武博
僕は目が覚め起き出すと、奇妙な感覚に囚われていることに気がついた。
“ざわざわが、居る。”
平日の夕方前の住宅街は静かなものである。
それなのに周りが〈ざわざわ〉としている、もしくは〈ザワザワ〉している、そんな感覚は、おそらく夢を見たせいだと思った。
“まるで囚われている、ざわザワに囚われている。”
そんな思考をふり祓い、この奇妙な“囚われ”の起因を探そうとする。すぐに夢見のせいだろうと思った。だってついさっきまで寝ていたのだから。どんな夢を僕は見た?その夢を思い出せば解るかもしれない。でも思い出せない。いや、原因は夢ではないのだろうか?とはいえ睡眠以外は何もしていなかったのだから、夢の影響だと考えるのが妥当なはずだ。
夢を思い出せたらと、〈無意識〉に意識を向けた瞬間に、歌が聞こえたような気がした。
周りを見渡す。
ドア窓を開け、ベランダにも出る。
しかし何も聞こえない。
ケヤキの樹が、雲とかすかな水色が見える空の下で、さわさわと揺れている音がささやかに聞こえてくるだけだ。
坂の下から、小学生たちの集団が、登ってくるのが見える。女の子が三人、男の子が二人。仲良さげに坂道を、みんなで話しながら歩いている。
そうかもう下校の時間か……。
ふと。
何かが自分の中を通過した感覚が生まれた。
“あれ?いや、まさか…。何かが通過するなんてあり得ない”
その時に、ある日本人が物理学でノーベル賞を取った、その内容を思い出す。
『ニュートリノには質量がある』
そうだ、一番小さな素粒子にも質量があり、その素粒子は小さいがゆえにあらゆるモノを通過している。いまも絶えず世界を、地球を、僕たち人間を通過している。そのニュースをテレビで見た時に思ったのだ。
〈ニュートリノが質量を持ちながら僕らを通過するのなら、僕らは少なからず、いや違うか、おそらくとてもとても微々たるものかもしれないけれど、きっと影響を受けているに違いない。受けないワケがないはずだ。〉と。
だからあるいは今まさに、何かが僕を通過したのかもしれない。それこそ物理的に。
僕は頭の中で、改めてゆっくりと自分を満たしているモノを丁寧に言葉にする。
“やはり奇妙な感覚がある”
深呼吸をして、今度は小さく口に出して言った。
「その奇妙さは『ざわついている』という言葉である」
きっとざわサワが僕の中を通過しているのだ。何がざわザワとざわめいているのだろうか?自分の心の中で、ではなく、もっと物理的な現象として。
そして奇妙なのは、ざわめきは時間の感覚も呼び起こし連動しているということだ。おそらくざわザワが通過した瞬間に感じている。つまり過去や未来や今この瞬間、あらゆる時間概念から、ざわザワが聴こえてくるような感覚なのだ。ざわめきに時間という情報が入っているような実感。
“まるで羊毛のようだ。”
モコモコととりとめもなく存在する時間。
“からまりふわふわと存在する、羊毛時間だ。”
ふと。
再びふとはやってきて、頭の中にある考えが浮かぶ。僕はそれを丁寧に記した。
〈僕らの感じている時間という概念は、ひょっとしたら羊毛時間から紡いでいるのかもしれない。〉
時間という名の羊毛があるとする(もちろん蚕からでもかまわないのだが)絡まりモコモコとある羊毛から、僕ら人間が〈時間〉という概念の一本の糸として、始まりと終わりを抽出しているだけなのかもしれない。
〈もちろんその糸は、紡がれるためには長くピンと張られていなければならない。そうじゃないとまた絡まり、羊毛時間に逆戻りだ。だから糸は真っ直ぐで、それが僕らの言う〈時間〉の概念ではないのか?つまり今、僕の中にあるざわめきは、まさに羊毛時間そのモノだってことだ。だってあらゆる時間が存在するのなら、そりゃざわザワするよ。そうか。そうかもしれない。例えば夢は、その羊毛時間に近い場所へと、行くことが出来るツールかもしれない。〉
僕はそこまで考えて、可笑しくなって笑ってしまった。
確かめるすべもなく、そもそも物理を無視している仮説に、可笑しさが込み上げてきたのだ。なんせ宇宙にはそもそも始まりがあり、今もその時間は一方向に進んでいて、その方向の先にあるのはきっと終わりというものだから。
それでも僕はそんな夢想が楽しかった。
さらに連想してみればいい、自分にそう言って連想する。
〈例えばこのざわザワ達は『百鬼』なのかもしれない。そう、見えない妖怪たちだ。いや『百神』でもいい。僕には見えないだけで、あるいは存在しているかもしれない。風に乗って届く匂いのように。すべてを通過してゆくニュートリノのように。〉
僕は弁財天へ向かって歩いた時に、百鬼や百神を感じたことを思い出していた。10月24日の土曜日のことだった。更にずっと昔に歩いた吉祥寺弁財天への道のり。夜の片瀬江ノ島、厳島神社。吉祥寺弁財天と江島弁財天で、そう僕は確かに〈彼ら〉の存在を感じたのだ。“共に歩いている”と。
その感覚も思い出しながら、この奇妙な感覚に身を任せてみた。
風に揺られる木々のように。
ゆらり。
ユラリ。
その時だ、ざわめきが一つの音として聞こえたような気がした。
いや聴こえた。
正確に言えば言葉だ。
「一人立たなければならない」
周りを見渡す。
歌が聞こえる。「君は、愛に逢いにゆく♪」
言葉。「しあわせに」
笑い声。「キレイ」
嬉しそうな泣き声。「うん、うん」
言葉。「一つの大きな」
歌。「探しにゆく♪」
言葉。「愛」
歌。「踊っているよ♪」
言葉。「素敵」
言葉。「出逢いだからね。それは魂の出逢いなんだからね」
ざわざわ。
ザワザワ。
でも優しく静かに楽しく、溢れる。
僕はその時に何故だか涙が溢れた。ぽろぽろポロポロと涙が溢れた。意味が分からない、ただ、ただ、涙が溢れた。言葉がまた響く。
「ミテ!」
そして次の瞬間、ざわめきが消えた。
静寂の中、僕は思った。
確信した。
“これは未来からの声だ。これは僕が手に入れることが出来なかった未来の声だ。僕には分かる。何故だか分かる。”
次の瞬間、予感を感じた。いや気配だ。僕はもう一度ドア窓を開けてベランダへ出ると、下をこっそりと覗きこんだ。そこには坂を登ってきた少年少女たちが、空を見上げて立っていた。丘の上に立つアパートの先に広がる、まるで羊のような大きなモクモクもこもこ雲が、青空に一つ、すごい塊でぐるぐると渦をまいていた。
「まるで羊みたい」
一人の少女が言う。
全員が「うん」と言った。
「あ、象になった」
一人の少年が言う。
全員が「うん」と言った。
「あ、また羊になった」
最初に羊だと言った女の子がまた言う。
全員が「え~?」と言った。
うん確かに羊というより単なる丸々もこもこだ。
すると男の子が歌った。
「羊さんが~踊っているよ~♪」
さっきの歌だ。たぶん羊の部分を今のこの状況に合わせて替え歌にしたのだろう。
「これも出逢い!」
女の子が嬉しそうに笑った。
「魂の?」
「そう!」
僕は、その得意気な言い方に吹き出してしまった。何より自分の勘違いに。そう、未来からの声なんかじゃない。僕はこの子どもたちの声が聞こえていただけなのだ。
「でもさ面白い夢だね」
「うんうん」
「この歌も夢で聞いたんだもんね?」
「そうだよ。本当だよ。本当に夢で見たんだ。雲で、時間である羊が言ったんだ。〈魂の出逢い〉を大切にって。イマここにたくさんがあるのを大切にって。そして未来を失うなって。雲を掴むようなものだけど、大切な時間は、そんなモコモコの雲から自分で掴まなければならないよ」
「なんだかムズカシイね」
「俺には分かる。それはいわゆるテツガクってやつさ」
「ナニソレ?」
「生きるために必要で不必要なモノなんだって、お父さんが言ってた」
「それもよく分からないね」
「そしてその雲はこうも言ってた」
「なに?」
全員がまるで示し合わせたかのように一緒に質問し、彼女の次の言葉を待って耳を傾けた。
僕も耳を傾けた。
彼女は言った。
「ミライはホンモノが紡ぐ」
……え、紡ぐ?
「君が雲から紡がなければならいよ?」
僕は空を見上げた。
空にはまるで羊のようなもくもく雲が一匹浮かんでいた。
「紡ぐってなに?」
「私も知らなくてお母さんに聞いたら、糸を作ることだって」
「スゲーお前、知らない言葉を夢で見たんだ。魔法使いみたいだな?」
「でしょ?ちなみに私の将来の夢は魔法使いだよ?」
するとみんなは「出た~」と口々に言いながら、「そう言えば先生が将来の夢はって言った時にさ…」と一人の男の子が話はじめると、話題は学校のことになり、五人は楽しそうにたくさんを話しながら、右奥の住宅街へと向かって歩いていった。
かすかに聞こえていた声も聞こえなくなり、ケヤキの樹がサワサワと鳴るいつもの静けさだけが残った。
もうざわザワはしていなかった。
ひょっとしたら僕は、近づいてくる彼女たちのざわザワを、無意識に感知していたのかもしれない。この世は物理で出来ているから、彼女たちの振動を感じていたのかもしれない。あるいは、僕は本当に羊毛時間の中に居たのかもしれない。そして夢を通して彼女と羊毛時間を共有したのかもしれない。
そんな思考に自分自身で可笑しくなって笑った。思った。
“僕はどんな時間を紡ごう?”
決まっている。
愛と本物で創られた時間だ。
見果てぬ夢でも始まりは、だってそんな夢から始まるのだから。
僕は空を見上げながら呟いた。
「君はきっと素敵な魔法使いになれるよ。少なくとも僕に元気をくれたんだから」
雲はいつの間にか、たくさんの小さな様々になって、空いっぱいに広がっていった。
fin

