『ウンウン気』~2023年8月30日(水):目先想創
イヤイヤ期なるものがある。
子どもが2、3歳になる頃。
第一次反抗期。
自我の芽生え。
自立心。
子どもたちと遊んでいると、ついつい同じ立ち位置へと行く僕は、このイヤイヤを一段高いところから見てられないことが、ある。
自分が12歳の頃にはもう姪がいて、子どもに接する時間と経験が多かったので、基本的には慣れてはいるけれど、このイヤイヤについ真っ直ぐに反応してしまうことがある。
「どうして?」となってしまう。
視点思考の幅がシンプルになってしまう、ことがある。
イヤイヤはでも、伝えの始まりだ。
表現力が足りないから、赤ん坊の時は泣き、少し大きくなったらイヤイヤとなる。
表現力不足は同時に、己の感情や思考や、何より〈自我〉の理解力不足が元になっている。
このイヤイヤって、形を変えて「大人でもあるな」と思っていて。
発動するのが「聴かない聴けない」だったり「無視」だったり「無反応」だったり「否定拒否」というシンプルな形だったりする。
舞台稽古の場でもこういうことが起こるから、僕は可能な限り〈我〉を聴くし、何より尋ねることが多い。
ヒントは相手にも自分にも出す。
解釈や他の人の視点思考も含めて、先ずは場に出して広げる。
さて僕は思った。
「だいぶ稽古場の機会が無いから、ちょっとその在り方が希薄になっている気はする。しかしそもそもが、そのイヤイヤ姿勢の認知と解釈と向き合い方を、自分が思っている以上に自分は手にしていないのかもしれない」
と。
すべての人が「語れる」「伝えられる」、つまり己を「理解している」訳ではないのだ。
何より自分のすべてを、まさに理解できていない。
ということを、己にも向けて考えてみたら「なるほど、これはもっと広く開いておかないと、イヤイヤの本質を、理解する機会を、理解できなくても己に活かせるチャンスを、何より〈共に創る〉機会を失ってしまうのかもしれない」と思ったのでありました。
ここはあえて乱暴でもいいから「ぼくたちはイヤイヤ気を、むしろずっと持っているのだ」ということを前提にすることで、新しい地平が見えてくるかもしれない。
期ではない、気なのだ。
気はでも、期になったり記になったり鬼になったり、する。
そう考えたら、何だか様々色々な人たちを(自分を含む)、赦せるような気がしてきた。
うむ。
いいね。
この視点、思考。
新しさと楽しさがある。
僕は今、ウンウン気~もしくはハイハイ気、あるいはヨシヨシ気~に成っている。
うんうん。
愛川武博

