『祝文を纏う』~2023年6月28日(水):目先想創
呪い
と
祝い
兄は「ひざまずき祈りを捧げる人」を表している。
元々は〈祝〉があり、そこから《呪》が生まれたという。
そして《呪》はノロイというより、良い悪い関係なく「まじない」である。
形のないものを言葉の力〈言霊〉によって縛る、お呪い。
〈祝〉が先だとするならば〈祝〉もまた《呪》同様に言霊であり、まじないであり、縛るモノであるのだろうと思う。
「祝い」の言葉に縛られることも、『呪い』の言葉に縛られることもあるから。
誰かの敬意で頑張れたり、誰かの悪口に心を囚われたり。
祝いの言葉に苦しみ。
呪いの言葉で救われる。
こともある。
悪い意味で、好き(祝とし)嫌い(呪として)が結果、共犯を連れてきたりする。
祭壇にて幸せを祈る様、祝。
口から発せられる祝詞であったものが、敵に打ち勝つ言葉となり、人を傷つけ呪う言葉へと転じていった、呪。
呪文はだから言葉の力。
始まりに良い悪いはなかったとはいえ、育った育てた概念や解釈は、《呪》を誰かにとって悪いモノとしてのエネルギーへと変えた。
だからやはり呪文は、ちょっとネガティブがある。
『呪詛』は呪いの言葉なのだ。
それならポジティブな言葉をすべて「祝文」とするのは妥当なのかな。
シュクモン。
ジュモン。
どちらにも魔法がある。
言葉の力。
言霊。
ならば呪文より、祝文を使う方が、使われる方がいいよね。
とはいえ、どちらの言葉も活かし方だけど。
糧にも毒にも成りえるから。
そして同時に思う。
〈祝〉の始まりを鑑みて。
祈を捧げるその姿。
形象。
形の言葉。
「祝文」はならば、様、姿、姿勢、転じて行動アクション生き方あり方。
ボディーランゲージという言語がピタリとくるのでは、と。
身体の言語。
祝文。
祝文は言葉にしないでも現れる言語体。
姿勢。
在り方。
生き方。
人間。
(ここまで書くと「役者は言語体でなければならない」とよく伝える僕には、祝文はまさに役者に必要なものであり、もっと言えば祝文・呪文どちらも、役者はその最前線にいるべきなのだろうな、と、思えた)
あ。
なるほど。
そのように考えると、祝文の祝文たる「祝」は、笑顔なのかもしれない。
うん、居る。
思い浮かぶ。
笑顔もそうだけど、笑顔だけじゃなく、ただそこに居るだけで、何故だか祝文を纏っているかのような、幸せへの祈りを捧げているような素敵な人が。
オーラ。
存在感。
人柄。
人格。
言葉は何でもいいけど、感じることがある。
まさに「祝文の人」。
いや、まてよ。
言語体だとして、存在が語るならば、ネガティブを、呪いを纏っていてもその存在が雄弁だとしたら、それはもう祝文と言えるのではないのか?
確かに。
いる。
語っている。
ネガティブを。
ないがしろや無視やぞんざいを。
感受する。
むしろ多い。
なってこったっ。
原点回帰。
ややこしい。
どうやら〈祝〉は、《呪》になる流れを止められないらしい。
人のサガなのか?
ああ、僕らはどんどん呪に成ってゆく。
(……いやいや、勝手にハナシを膨らませて勝手に着地しているだけだし……)
考え。
想創を楽しんで、思う。
言葉の持っている力、そのままに。
「出来うることならば僕も、祝文を纏う人でありたいものです。」
愛川武博

