【加田担当】2011年羊稽古場 六十四日目 そのとき私は呟いた。「君は太宰治が描くチャン・グンソクだ」

 梅雨が明けた。
 今年も暑い夏がやってきた。

 「夏」と聞くと、ミンミンと鳴くセミの声が頭に響いてくる。が、実際は、ここ数年、うるさいほどのセミの声はほとんど聞かない。異常気象のせいだろうか……。

 一方で、今年も変わらず聞こえてくる「夏の声」もある。毎年この時期になると、必ず、愛川氏がいう。「やせる」と。この「やせる」宣言を耳にすると、「夏が来たなぁ」という気分になる。私にとっての夏の風物詩である。





 ただ、この、「やせる」発言の前提あるのが「夏が終わる頃にはすっかりやせ、秋から冬になると冬眠のために再び脂肪をたくわえ、春、めざめたときにはまたすっかり体が細り、そこから厳しい夏に向けてあらためて栄養をとって肥える」――とかだったら、クマのプーさんが「夏になったから、やせるんだぁ」と言っているみたいで、それなりに趣深いものがあるのだが、現実には、夏にやせるということはほとんどなく、仮に少しやせたとしてもすぐにリバウンドし、そのままたるんだ腹をかかえつつ1年過ごすという生活を繰り返している。以前は、この言葉を聞くと「がんばってくださいね」と励ましの声をかける心優しき女子たちもいたが、最近は、めっきり見かけなくなった。だいたいが、ノーリアクションである。

 かくいう私も、ここ数年は、この言葉を、表面上聞き流している。
 が、その一方で、秋になり、スリムになった愛川氏がイチョウ並木を韓流スターのように歩いていく姿を心の中で想像しつつ、その宣言が実現化することをひそかに祈っているのも事実だ。

 いまの姿からは想像つかないが、十数年前、私が愛川氏と出会ったとき、彼は、舞台の上を機敏に動き回っていた。走り、跳び、舞い、筋肉が躍動していた。それがいつのころからか、妊婦さんのようなおなかを抱えるようになった。いや、正しくは産後の下腹に近いのかもしれない。なにかを育み、なにかを生んだ結果なのだろうか……と、好意的に表現してみるが、実際はただのメタボである。

 さて。
 この日の稽古は、愛川氏の、「やせる」宣言を受けたわけではないが、愛川氏と2人稽古ということで、体力系稽古を実施することとなった。

 役者に体力が必要かと問われれば、多くの人は「イエス」と答えるだろうが、現実に体力作りを稽古の中に組み込むのは難しい。別にそれ自体が芝居の上達と直結するわけではないし、それなりに時間をとるし、なにより楽しくない。だいたい別に集まってやらなくちゃならないことでもないし。家でやれってことだ。
 よって、アクションや殺陣などを積極的に芝居に取り入れてるところならともかく、うちらのような集団が、わざわざ稽古場で体力作りをやることもないような気もするのだが、なぜか、かつては鬼のようにこの手のトレーニングに励んでいた。とくに体育会系的気質の人間はいないのだが、なぜだろう?

 午前は、サーキットトレーニング。
 よく筋トレとかでやるアレである。

 「羊」でやっているものも、とくに変わったスタイルではない。腕立てや腹筋、スクワットなどなどを順番にやり、その間にダッシュやもも上げ、サイドステップなどで部屋の端から端までを往復するというやり方だ。全体で3セット。時間的にはそれほどの長さではないが、体が動かなくなる30代以上の方には、かなりハードだろうと思う。羊の稽古では、ストレッチの最後にジャンプ運動をやったりするので、それだけでもかなり疲れるのに、さらに加えて、このサーキットをやると、たいがいそれで燃えつきてしまう。前にもこのブログに書いたが、はじめて来た参加者で、この一連の運動で嘔吐した人もいる。
 とはいっても、最近は、このサーキットトレーニングをやっていない。仮に週に1度であっても、丁寧にやれば、確実に体力はつくのだが、ほかのことに時間をとるようになったので、いつしかメニューからはずされていた。

 そんなわけで、かなり久し振りのサーキット。
 愛川氏、かなりへばっている。必死に走る。跳ぶ。しかしかつてのように、筋肉は躍動しない。下腹が上下にゆれるだけである。
 このサーキットは1セット終わると30秒休み、あらためて一斉に次のセットをスタートするのだが、その30秒は、「最後に終えた人」が基準になる。つまり、早く終わればそれだけ休憩時間が長くなるが、逆に、遅れると、回復を待たずに次のセットをはじめることになり、さらに遅れてしまうという悪循環。
 3セット目になると、愛川氏の息は絶え絶えである。これ以上やると、死ぬかもしれないと心配になってくる。

 だが、この日の愛川氏は、あきらめない。
 今度は「走ろう」と言い出した。

 「羊」の稽古場では、かつてランニングを取り入れていた時期もあった。
 稽古場が確保できず、代々木公園で稽古をやったときは、公園の周りを10周走った記憶もある。確か、夏の終わりだったと思う。とても暑かった。
 ……アレをまたやろうというのか、愛川よ。

 私がどれくらいの距離を走りたいか問うと、愛川氏は「5㌔以上10㌔以内」という。この日の稽古場は豊島区長崎。池袋から約3㌔ある。そこで、川越街道まで出て、街道沿いに池袋まで行き、そこから要町通り沿いをまっすぐ長崎まで帰るというコースを設定する。6.5㌔くらいだろうか。

 長距離を走るには、呼吸法が肝要であると私は思っている。大きく吸って大きく吐くのがもちろん基本だが、各人の体のリズムにあった呼吸のテンポというものがある。「呼吸と走り」の関係は「セリフと身体表現」の関係と似ている。そして、呼吸法が分かれば、心臓への負担を最小限におさえながら、一定の速度で走り続けられるはずである。
 もちろんこの「一定の速度」とは、「しんどくなる」一歩手前のスピードでなくては意味がない。だが、現実には、1人でランニングをすると、3歩くらい手前の速さでまったり走ってしまいがち。なので、自分より速く走れる人間に引っ張ってもらうのが一番良い。私は、皇居の周りをよく走るが、自分のペースメーカーになりうる人間が来るのを待つときがある。
 今回、私は、池袋までの道を愛川氏のペースメーカーとなった。愛川氏の「限界スピード」を確認し、それより少しだけ速く走りつつ、牽引する。
 問題は信号である。一度、走りを止めてしまうと呼吸に伴った体のリズムが崩れる。車の通りが多く排気ガスの舞うような皇居の内堀をあれだけ多くのランナーが走るのは、単に「ちょうどよい距離の円周コース」というのではなく、信号がないというのが大きな理由だと私は思っている。
 案の定、川越街道と山の手通りの交差点で信号につかまった。だいたい2.5㎞地点。走り慣れてないと、一番苦しくなるところである。愛川氏はぐったりと体を崩し、へたりこんでしまった。こうなるとあらためて走り出すのは、容易ではない。
 ランニングをする場合、基本的に止まってはならない。苦しくなっても歩かない方がよい。もししんどくなったなら、呼吸を変えないで、スピードをゆるめるのがベターだろう。あくまで走り続けるのだ(もちろん心臓に異変を感じたり、熱中症や貧血になった場合は別である)。だから、信号で足踏みするのは間違っていないが、足踏みで走る感覚を再現するのは難しいので、これでもかなりリズムが崩れる。
 いずれにせよ、愛川氏はそこで止まったため、再スタートで多くのエネルギー使う結果となり、スピードが大きく落ち込んでしまった。池袋まではなんとかそれでも走ったが、そこでいったんストップしてしまった。
 池袋までくれば、あとは一直線なので、私はそこから1人で走り、先に帰った。
 要町通りから稽古場に向かう脇道に入る手前で待ち合わせをすることになっていたので、稽古場に着いてから自転車(私は稽古場へ自転車で行っている)でその地点に引き返した。自転車で向かったのは、その地点よりずっと手先で愛川氏がへばっていると予想したからだ。
 ところがあにはからんや、私が待ち合わせ場所に着く直前に、愛川氏は到着していた。正直、意外だった。踏ん張って走り続けてきたのだ。ぼろぼろになりながらも、歩を前に進め、ここにたどり着いたのだ。そこにいるのは、メロスだった。愛川メロスだ。
 そのメロスを見て、少しだけ、こみ上げるものがあった。……いや、吐きそうになったわけではない。念のため。

 愛川氏は、稽古場に帰ると、廊下にへたれこみ、体を横たえた。腹這いになってトドのようになっている。
 たぶん、翌日はひどい筋肉痛になったろうと思う。

 今年の夏の愛川氏は、本気かもしれない。
 ひょっとしたら、イチョウ並木の韓流スターは夢ではないかも、と淡い期待もふくらんでくる。
 来年には、セミの鳴き声のように、愛川氏の「やせる」宣言が途絶えることを願って。

by moving_sheep | 2011-07-30 14:52 | 稽古場レポート | Trackback
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