今だからこそ言える、「太陽の緑」徒然 part4ふぉふぉフォふぉうだべよー
色々な人に言われるので、きっと侍だ。
ちなみに魂がではないよ。
それでも言われ続けると、心まで侍になるようで、不思議だ。
愛川です。
ワカリヤスイでも密度の濃い作品を。
1年前、「それでも僕らは荒野を歩く」という作品を書いて、上演して思った。
最後まで観ればワカル御話だったけど、そんなに難しくはないけれど、僕はその作品を作ってそう思ったし、実際それ以降は短い作品ばかり作っていたということもあり、比較的ワカリヤスイ作品ばかり作っていた。
そう「荒野」以降、20分~45分くらいの作品を5本作るのだが、完結したワカリヤスイ作品ばかりだった。
(それでもワカラナイと言う人が若干いたが)
でも僕は結果として、「太陽の緑」でワカリヅライ作品を書いた。
(正確には選択した。困難な道を)
「シトラスちゃんと6年2組の仲間たち」はワカリヤスイ。
それでも、エピソード公演「太陽の緑」はワカリヅライ。
しかし、ワカルっていう人も多数いる。
そうなのだ、ワカル人とワカラナイ人が同時に存在する。
勿論、好みも存在する。
でも実は、僕は伝わると思って書いている。
届くと思って、演出している。
ワカリヤスイとは言わないが、心を揺さぶる作品にしたかった。
それは極端に言えば、オハナシが分からなくても好みじゃなくても、魂に届く作品を作りたかった。
つまり俳優が体現し、圧倒的グルーヴ感で“物語”を魅せたかったのだ。
失敗し、成功した。
それは脚本のレベルでも、演出のレベルでも、俳優のレベルでも言える。
まだまだ足りない。
思考し、検証し、努力し、感じ、使う。
そう、もっともっと、心と頭と身体を使うのだ。
これは、自分たちの矜持や大切なモノを変える、ということではない。
移動し、変化し、変えない。
移動せず、変化せず、変える。
もっとヒタスラに使うのだ。
五感を使うのだ。
六感まで使うのだ。
そして第七感を目指すのだ。
それが移動する羊の真骨頂だ。
ちなみに何回も言うけれど、本編「6年2組の仲間たち」はワカリヤスイよ。
うふふ。
それぐらいでも、羊真骨頂は消えやしない。
いや、ちょうど良いと思う。
むしろ、特化するだろう。
大切なモノを大切にしながら、僕らは移動を続けるのだ。

