今だからこそ言える、「太陽の緑」徒然 part1
メタボゆえに痩せる?
いえ、モテるために痩せる。
取り戻せ、ラブリバー。
愛川です。
「シトラスちゃんは太陽の緑」が終わって、3日目なのですが、何故だか、かなりの時間が過ぎ去ってしまったかのような気がするのは僕だけか?と思っていたら、ヨーコとドライブしていたら(いえ、単に、羊クッションを運ぶ時に、長々とドライブしながら目的地に向かっただけだけど)、やっぱり同じようなことを言っていた。
公演期間中は、かなりあっという間の感じがしていたが、不思議なものだ。
さてさて、公演前、公演期間中には書けなかったことをチマチマと書こうと思う。
まずは結果報告。
「太陽の緑」は賛否両論の作品になった。
(ちなみに細野美也はアンケートを一通り読んで、「そんなに否がないじゃないですか~」と言っていて、“どれだけ前向きなんじゃい”とツッコんだが、彼女のそのポジティブさが『シトラスちゃんと6年2組の仲間たち』を支えているのだ)
よく言われたり書かれたのが、“ワカラナイ/難しい”だった。
ちなみの本編は今のトコロ、とてもワカリヤスイ作品になっている。
そうかやはり予想通りか、と思っていると、ワカル、面白い、楽しい、壮大、テーマも分かりやいと言う人が、それなりの数(半数は普通に超える数)居るのだから不思議なものだ。
(実は不思議に思っていませんが。オホホ)
勿論、伝わることを前提に作っているのだが、難しいだろうなという事もワカッテ作っている。
つまり俳優が体現しないと、辿り着かない構成にしてある。
(それでも、単純に読解が難しい脚本ではあるのだが)
面白い二つの比較。
ある上演回は、俳優だけが褒められるという現象が起こった。
「役者は良いんだけど、あとは・・・」
みたいなことを言われ、書かれた。
実は、これは演出がある意味成功しているのである。
(勿論、脚本レベルでも敢えて、役者力が必須である前提で書いているのだが)
僕の演出に耐えた俳優は、評価されることが多い。
(単純な統計論ですが)
かなりの、シンドイ思いをして、手に入れている。
簡単じゃない。
でも辿り着くと、まるで、普通に簡単にやっているように、見える。
だから、評価される。
しかし、それじゃ、失敗なのだ。
そこから先がある。
「役者は良いんだけど・・・」は、単なる技術の披露だ。
つまり、単に外に向く力だけで、中身が無いのである。
実は物語を、想いを、役の魂を、その身体に宿し、中身を保ちながら、外に表現を向けるという同時性が大切になってくるのだ。
それは、心と頭と魂を使い、生きる作業。
僕は、その上演回(夜の回)を観て、翌日の朝、痛烈にダメだしをした。
モレなく皆、そうだったからだ。
そんなんじゃ、実は何処にも届かない。
そして、次の上演を迎えることに、なる。
僕は、唯一、その回の前に一回だけ、負のオーラをワザと出した。
みんな、笑いながら僕にツッコム。
僕も、笑いながら、負のオーラ、それは実は緊張感を出した。
そして、その回の上演は大成功だった。
お客様は、内容がワカルし、面白いし、楽しかった、俳優達も素晴らしいという反応を、8割方の人がして帰っていった。
(勿論、10割はない)
その回が結果として一番良い回になったのだが。
人間が作り出す物語が、好きだ。
観たい。
作っている。
だから俳優たちの力が、どうしても必要なのだ、というエピソード。
そして、だからこそ、もっと物語を、もっと物語を。

