執筆録 一年半前、書こうとして断念した物語、それは地震から復活してゆく人々のファンタジー
トイレとお風呂場が崩壊するかな?
軋んでいるアパート。
ひー、コワイ。
古いからね。
余震で少しずつ壊れてゆくけれど、その中で書くのだ。
アイカワです。
一年半くらい前に半分くらい書いて断念した物語がある。
それは、大地震で世界の終わりを体験する人々の、復活までの物語だ。
平行する現実と虚構の物語だ。
稽古場でも少し稽古した。
でも、断念した。
実はその時にその物語につけようと思ったタイトルがある。
「世界が終わらなかったかわりに僕らは終わった」
それは断念した物語のタイトルではなく、もっと個人的な人間の物語のタイトルにした。
僕らの生きている世界はいとも簡単に終わる。
それは、大きな世界から見れば、小さな世界かもしれないけれど、僕らは自分の生きている世界で精一杯生きて、いる。
そのまま、その世界で死ぬかもしれないし、その世界を抜け出して、違う世界や、もっと大きな世界へと旅立つかもしれない。
でもそのつど、終わりを迎える。
様々な終わり方があるけれど、外的要因で、圧倒的力で終わりを強要されることがある。
その一つに災害がある。
今回のような場合。
そんな時、僕らはあまりにも弱い。
屈することしかできない。
だからこそ、そこからの新しい世界を目指す力を描きたかった。
屈しても、なお、這い上がってゆく様を描きたかった。
東北地方太平洋沖地震が来た時、建物という建物から人々が出てきて、地面が揺れ、建物が揺れ、人々が這いつくばり、声が響いた瞬間に、僕がまず思ったのは、「とうとう世界の終わりがやってきたか」という想いだった。
不思議だけれど、とても恐いと思うと同時にそのすべてを受け入れていた。
大地に立ち、空を見上げた。
この先のすべてを引き受けて、もし生きていることが出来たなら、必ず這い上がって、新しい世界のその先を、全力で目指そうと思っていた。
でも僕の世界は終わらずに、違う世界が終わりを迎えた。
むしろ絶望した。
むしろ苦しいと思った。
自分だったら笑って引き受けてやるけれど、他者だと自分以上に苦しいと思った。
僕は半年前に知り合いを亡くした。
その子は僕から見ると不幸の塊のように見えた。
度重なる不幸の連続のようにしか見えなかった。
その子の小さい頃の可愛い映像を見てさらに思った。
生きれば生きるほど、生きているのが辛くないのか?とずっと思っていた。
でも僕は彼女の笑顔しか覚えていない。
彼女はいつも笑っていた。
勿論、怒ったりワガママを言ったりする普通の女の子だ。
それでも、僕は彼女の笑顔が、心に焼き付いている。
いまでも素敵な笑顔で笑ってる。
僕は思った。
どんなに不幸な場所にいたとしても、人は笑う権利がある。
いや、どんなに不幸な場所にいても、人は笑うことができる。
それは生きる力になる。
僕は彼女からそれを教わった。
僕が勝手に不幸だと思っても、人は生きる力を持っている。
幸せに向かう力をその手にしている。
今でも自転車に乗ると、ふと彼女を思い出す。
突然逝ってしまった彼女のことを思い出す。
叫びそうになりながら、でも、僕は、ぐっとこらえて彼女の笑顔を思い出す。
そのたびにペダルを力強く踏みしめる。
僕はグンっと先にゆく。
空を見上げる。
そうして僕は、空の蒼さの意味を知る。
そんな物語を書きたいと思う。
彼女の笑顔のような物語を書きたいと思う。
断念した希望へ向かう物語を書こうと思う。
時間がかかっても構わない。
僕の中に彼女から渡された種があるのなら、それを育ててみようと思う。
そしてその種が育って花が咲いたなら、欲しいという人にあげるのだ。
人は、笑うことが出来る。
ラブリバー

