竹内 もみ(背中で語る物語)

初めて彼女と会ったのは「荒野を歩く」の稽古場公演の本番前だった。中根道治と観に来ていた。つまりほんの2ヶ月ちょい前だ。2時間くらい前なのに要町をウロウロしていて、金野みや海老原愛川でジョナサンから出てきた時にバッタリと会った。まったく知らない瞬間に「おっ雰囲気のある可愛い女の子が目の前にいる」と思った。次の瞬間。海老原さんが「あー!」と叫んだ。おっなんだ、こんなカワイコちゃんと知り合いかっ?と思ったが、とりあえず言わないでおいた。今、言ってしまったが。カルイ男か!?カルイ男なのか!?そして彼女らは芝居を観たのだが、僕は芝居を一番後ろから観ていた。つまり僕は芝居を観つつ、お客様を観ていた。僕はこれをよくやるのだが、これがとても楽しいのだ。大抵、背中を観ていれば、どんな感じで観ているのかがワカル(勿論、すべての結果は分からないよ。楽しめたか、楽しめなかったかは。でもその瞬間瞬間はワカル)眠いのだとか、我慢しているのだとか、楽しんでいるのだとか、可笑しいとか、集中しているとか、散漫なのとか、寝ているだとか、あれ?これどっち?とか。ワカラン反応だっ!てのも含め、もう本当に、演劇ってお客様も入れて演劇なのだ。その中で、その回で、エラク集中して観ている女性が居るのに気がついた。左先端、かぶりつき。最前列で、僕は強い印象を受ける。何故なら芝居を観ているその背中は、素晴らしく女優の背中だったのだ。僕が彼女に持っている強烈なイメージは、「なんて女優な人なのだろう」ということだった。僕は正確には彼女が俳優さんだという認識がなかった。なんとなく聞いたような気はするけど。でも僕は、なんて、女優な、人だ。と思ったのだ。だから彼女が移動する羊に興味を持って、彼女と芝居をやることになった時に、僕はワクワクした。果たしてどんな芝居を一緒に作れるだろうか?と。そうして稽古を始めて、魅力的な女優さんだと、日々思ってゆくことになる。まだまだタカミへとのぼってゆくことの出来る人だ。そして今、すでに遥かなるタカミへ立つ瞬間がある。たとえば、彼女は瞬間に入り込むと台詞を忘れることがある。エネルギーと情感が彼女を支配するのだ。しかしその瞬間は圧倒的存在感の佇まいだ。そうして台詞がなくても物語が立ち現れるのだ。ちなみに台詞を忘れているとは誰も気付かないけどね。ちゃんと言うは言うんだな。うん。でも絶対忘れているの。つまり彼女は瞬間を生きている。僕はそんな瞬間を最後尾で観たいと思う。今度は背中じゃなく、真っ正面から観ようと思う。彼女の中から放たれる物語を。そう彼女は物語を体現する。ランブル羊だ。


そして僕らの夏は真夏をむかえる。

by moving_sheep | 2010-07-24 10:01 | 夏 夏 夏(トリプルサマー) | Trackback
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移動する羊による稽古場の一つであり、呟きの場であり、表現の場所 物語・小説・詩・遊び


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