夏音(彼女に森の使いがやってくる)

彼女が12歳の時に、不思議な出来事があった。もっとも彼女は不思議な出来事にいくつか遭遇するのだが。それは彼女が真夜中に、誰かに呼ばれたような気がして、目をさました時だった。彼女は起き上がり、窓を見た。確かに閉めて眠ったはずなのに、窓が開いてカーテンが揺れている。何処かでバッハの「音楽の捧げ物」その中に構成される「トリオ ソナタ」が流れたような気がした。彼女のお気に入りの曲のひとつだ。彼女はあまり現代の音楽に馴染めなかった。ロックだのポップスなどは何故か彼女の身体のリズムと合わなかったのだ。だが彼女はレゲエだけは唯一好んで聞いていた。だから彼女が聞くのは主にクラッシック音楽だった。その彼女のお気に入りの曲。何処から聞こえてくるのだろう?外から?彼女はベッドからはいだして窓に身を乗り出した。その時だ。彼女の前に一匹のコウモリがやってきて、彼女の顔をかすめ、窓枠にサカサマになってぶらさがった。彼女はビックリして後ろに転げ、一回転をして、ペタンと座りこんだ。コウモリはキーっと一声出した。するとまた一匹飛んできて同じようにぶら下がる。キーっと鳴く。さらにもう一匹飛んできて同じようにぶら下がる。鳴く。そうして三匹並んでぶら下がり、まるで「トリオ ソナタ」を奏でるように、キーキーキーと鳴き始めた。いや、彼女が耳を傾けると、コウモリはまさに「トリオ ソナタ」を奏でている。こんなことがあるのだろうか?彼女は昔から動物によく好かれた。犬や猫もそうだが、野生の鳥や獣だろうと、彼女の前では産まれたての子供のようになる。一度、アフリカのザンビアにいた頃に野生の興奮した象に遭遇したことがあったのだが、彼女が無邪気に駆け寄り、鼻を触った瞬間に、オトナシクなったことがあった。まだ彼女が五歳の頃だ。ひょっとしたらコウモリも彼女のことが好きなのかもしれない。ヒトシキリ、コウモリが「トリオ ソナタ」を奏でたら、今度は声が聞こえてきた。「久しぶりだ!やっと会えた!ねぇ。君の踊りを見せてくれよ。僕は君の踊りが見たくて、ここまでやってきたんだ。だって君の踊りがあの時僕を救ってくれたんだから。でも魔法が切れたんだ。僕はあの時、君にかけてもらった魔法が切れたんだ」彼女はその声の言っている意味が分からなかった。何故なら彼女は踊れなかった。クラッシックバレエは大好きだったが、母親の教育で(クラッシックバレエは人間のするものではない。身体をムリヤリ狭い箱の中に閉じ込めるみたいなものだ、と言って)習ってはいなかったからだ。「言っている意味が分からない。ワタシ踊れないよ?それにあなたは誰なの?」「僕?僕を忘れたの?僕は“森の魂”さ。まだ生まれたての頃、君に出逢ったんだ。僕はずっと君を探していた。そして何千年の時を超え、君をやっと見つけたんだ。僕はコウモリを、君を連れてきて貰うために、使いに出したんだ。今、君から見て右のコウモリが、一番僕の声をよく届けることがデキル奴なんだ。そのことにかけてはピカイチさ。でも歌はイマイチだけどね。真ん中は僕の視点で、左は…」「ねぇ。ワタシはたぶん行くことがデキナイよ」「何故だい!?」「そもそもワタシは踊れないし、12歳だし、何千年も昔なんて生きてないし、あなたを知らないし、それよりなにより、明日この国を離れるの」「なんだって!?そんなやっと出逢えたのに。イヤだよ!」「泣かないで」「そんなのイヤだよ!」「ゴメンね」「僕は、これから、何を、頼りに生きていけばいい?」「哀しいことを言わないで」「君に貰った何千年で、君を探した何百年だったんだ」「うん。ワカッタ」「なんだい?」「今は行けな
い。でもそのかわり、あと13年待って」「13年?」「何百年も待っていたなら、13年くらいあっという間でしょ?そうしたら必ず戻ってきて、あなたの森で踊りを踊るわ。うん。約束。必ず、きっと」彼女は実に13年後に、この約束を果たすことになる。彼女は大学を卒業して自立したのちにバレエを習う。そしてあっという間に上達して、森で踊るのだ。彼女は森との約束を果たして、そうして再び森に魔法をかけた。

トリプルサマー「夏音」からの抜粋18。

稽古は日々、蝉の如くに鳴く。この声が届けと。
僕らの夏は始まったばかりだ。

by moving_sheep | 2010-07-21 16:51 | 夏 夏 夏(トリプルサマー) | Trackback
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移動する羊による稽古場の一つであり、呟きの場であり、表現の場所 物語・小説・詩・遊び


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