稽古場情報  鮮やかに恋をする

彼は僕の瞳をまっすぐに見つめながらこう言った。「君は恋をしてるね」僕は一瞬言っている意味が分からなかった。「恋をしている?」口に出してみたが、その意味をとらえることが、どうにも出来なかった。まるでそれは空気中に書かれた文字みたいに。ユラユラと揺れて、それが文字であることは分かるのだが、どうにも読むことが出来ない様なのである。つまり僕は虚空を見つめていた。彼はそんな僕の虚ろであろう瞳をさらに強く見つめ、鼻を人差し指で触りながらこう言った。「いや正確には恋をしてそれを封印した、と言ったほうが良いかな」「僕は、恋を、封印した?」「風邪をひいて腸が炎症をおこすように、恋をした人の瞳には、シルシが刻まれるんだよ。僕にはそれが分かるんだ。それはささやかながら、刻まれる聖痕みたいなものだ」「腸炎のあとのように、恋をしたキズ?」「勿論、信じられないのは分かるよ。もし僕が君なら、そんな話は信じない。瞳に刻まれる、想い、なんてものが分かるなんてことはさ」「つまり僕は、恋をして、それを封印したけれど、恋をまだ、しているかもしれない、ということに、なる?」「つまり、そういうことになる」「それはいつくらいの話なんだろう?」「ここ2ヶ月。長くて5ヶ月。半年と言いたい所だが、半年はない。あるいは何週間前」「最近ですね」「あるいは昨日かもしれない」「僕が、恋をした」彼はさらに深く僕の瞳を見る。そして左手で額にかかったひと房の髪を、優しくうしろに流して、一瞬ゆっくりとマバタキをした。それがあまりにも美しいマバタキだったので、僕は何故だかそのマバタキが、とても意味のあるメッセージのように感じられた。たった一度の重要なサイン。彼から僕に送られた一度しか送ることの出来ないサイン。勿論意味なんて分からないけど。ちなみにそれを裏付けるように、それから彼は僕と別れるまで、マバタキをたった一度もしなかった。たった一度もだ。「どうだい。何か思い当たることはあるかい」僕は考える。彼の瞳を見ながら考える。彼の瞳から目がはなせない。まるで、その瞳に答が書かれているかのような気がして、注意深く探している。でも思い出せない。オカシイ。かりに恋をしたのなら、きっと覚えているはずだ。なにしろ恋なのだから。心が動いたのだから。いや、まてよ。必ずしも、そんなことはないのではないか?恋に気付かないことだって、確かにある。そんな人をよく見る。あとになって、あれが恋だったなんて気付くことはザラにあるような気がしてきた。なるほど、そうなると厄介だ。僕に自覚症状がないのなら、自らの恋を発見するのはとても難しい。「ヒントをあげよう」彼は優しく目を細めた。「ヒント?そんなものがあるのですか?それにあるとしてそれを何故あなたが知っているのですか?」「世界は鮮やかなんだよ」「鮮やか?」「そう。世界はあらゆる色で溢れてる」「ごめんなさい。言っている意味が分からないんですが」「つまりシルシも例にモレずということさ」「すみません。やはり分からない」「その聖痕は無色じゃないんだよ」「無色じゃない?つまり僕の恋の刻印には色がついている」思考が加速する。「つまりその色の表している意味が、あなたには分かる。ということ、ですね?」「まさにその通り」「それで僕の恋の色はどんな色なんですか?」「桜色だね」「桜色。ピンクってことですね」「そう。淡いピンクだ。その色は大抵、『夢』の領域によく現れる色だ」「夢の領域?」「どうだい。心あたりはあるかい」そんなヒントで思い出すことなんかない。「あっ!」思い出した!そうだ。そうなのだ。僕は夢を見たのだ。夢を。ある女性が出てきた夢だ。「その彼女は突然出てきたのです。自然に当たり前のように僕の側にいて、僕と旅をしている。ただそれだけのことなんだけれど」「でも君は、恋をしたんだね」「確かに目が覚めたら、ドキドキしていた。あきらかに彼女のことをイトオシイと思っていた。僕はこんなことは久しぶりだったんです」「こんなこと?」「夢を見て恋をすることが」「あるいは夢を見て、恋に気付くことが?」「あるいは」でも僕はその気持ちを半日で“なかったこと”にしてしまった。今思うと怖かったのかもしれない。確かに封印したのかもしれない。懐かしい感覚に、身を任せるのが怖かったのかもしれない。その感覚はまさに“若さ”だったのだ。僕は一瞬で若者になり、そして瞳にシルシを刻んだ。「なるほど若さか。素晴らしいことだよ。君はまた、手に入れたんだよ。なくしてしまったはずの何かをね」彼はそう言うと優しく微笑んだ。この人はやることなすこと、いつも優しい。そして、そろそろ行くよと言うと伝票を持って立ち上がった。払いますよと言う僕の言葉を優しく手で止めた。スッっ僕の目の前に出された手のひらの真ん中には、ホクロが一つあった。それが妙に気になった。さっきから何故、こんな細部が気になるのだろう。マバタキ。髪をはらう仕草。ホクロ。そのホクロはまるで、イエスキリストのハリツケにされた時の傷痕のように見えた。すべてを許すシルシだ。そう、それは聖痕だった。僕はありがとうとサヨナラを言って、彼と別れた。やはり彼のうしろ姿は優しさに溢れていた。僕はきっと久しぶりに恋をしたのだろう。たぶん。そうして夢を見て、封印した。おそらくは。僕は彼と別れたあと、1時間ばかり思案し、店を出て、すっかり暗くなった空を見上げた。そこには月が浮かんでいた。半分の月。妙に鮮やかに見えた。そしてなんだか月は桜色に見えた。『世界は鮮やかなんだよ』確かにそうかもしれない。そうして僕は家路についた。そうして眠りについた。そうしてひたすらに色々な夢を見続けている。とても鮮やかでリアルな夢を。愛川です。

公演が無事に終わり、また稽古場が再開します!とはいえ、作品作りをベースにやってゆく稽古場になっていくと思いますが。やっぱり本番が一番上達への近道だ。

次回の稽古は5月26日水曜日の9時ー12時です。
場所は南池袋です。(いつも池袋周辺で稽古)

稽古は毎週、集まる人に合わせて脚本を書いています。
基礎トレと移動する羊オリジナルメソッド(かなり心と身体を使う)とテキストで作品作り。

興味のある方は是非、愛川のアドレスに「稽古場参加希望」とタイトルに書いてメールください。
アドレス。
loveriver@di.pdx.ne.jp

by moving_sheep | 2010-05-24 16:41 | 稽古場レポート | Trackback
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移動する羊による稽古場の一つであり、呟きの場であり、表現の場所 物語・小説・詩・遊び


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