空を見上げた。
駐輪場に立ち止まって、夜空を見上げるクセはいつからついたものだろう?
あまり思い出せない。
家に帰る前に一度は必ず空を見上げる。
朝でも昼間でも夜でも。
その時に、空が大好きな知り合いを何人か思い出す。
彼女や彼はきっと今日も何処かで空を見上げる。
数少ないその空を共有しているかもしれないみんなを思い、いつか普通にこの日この瞬間の自分の空を、当たり前のように話題に出して話し合う未来を思う。
僕は家に帰る心持ちになれず、止めてある自転車の後ろの荷台に腰をおろして、しばらく空を眺めていた。
フェンス向こう5メートル下に、何本かの線路が敷かれている。
駅から1キロほど続くこの大きな線路の河は、電車を見るには好都合らしく、よくこのフェンス越しに鉄道好きの少年たちが通過する電車を写真に納めていた。時に立派な望遠レンズ付きのカメラを持った大人も。
そのフェンス横に50メートルほど続く駐輪場。
そこからひらけた空に浮かぶ雲と月を眺めるのは、一息つける感覚があって僕は結構気に入っていた。
昼間に空を覆っていた厚い雲は、いつの間にかどこかに行って、濃紺の空が淡い薄い雲からちらほらと見えている。
21時前後に見られたはずの皆既月蝕は、二時間たった今はもちろん、いつもと同じ満月に変わっている。
なんら変わらない月。
薄い雲が移動して、濃紺空を背中に携え、月が雲間からその姿を見せたり見せなかったり。
その時、足もとからキシキシと音が聞こえた。
僕はふとその音のほうを見る。
そこには排水溝から出てきた小さなネズミが、空を見上げて背を伸ばしていた。
〝ひょっとしたら、月を見ている?〟
そう思ったけれど、果たしてネズミに月を見上げる習慣があるとは思えないし、そもそも月の存在を認識しているのだろうか?
そう考えた瞬間、ネズミは空でなく僕を見た。
そうして金網の柱をかけ登り、有刺鉄線と金網の間でとまり、僕に顔を向けて話しかけてきた。
「ねぇ、私の声が聴こえる?」
僕は不可思議な出来事を受け入れることに対して、かなりの覚悟を持っている。
いつか必ずやって来る奇妙を、いざって時には心の底から受け入れる、とずっと心に決めていた。
そう思っていたけれど、思った以上に覚悟がなくて、内心かなりビックリした。
でも平気な顔して応えることには慣れているから、いつものように平気な顔して応えてみせた。
「聴こえるよ。少なくとも誰かが語りかけてくれるなら、聴こうとする努力はしたいと思ってる。」
ネズミはニコッと笑ったように見えた。
美人だ。
いや美鼠か…。
「初めてだ。声をかけて聴いてくれる人間は。もう、このままずっと、聴いてくれる人は一生現れないかと思ってた。」
「そうか。みんなはだいぶ損をしているね。こんなに素敵な可愛いネズミに話しかけられて気がつかないなんて。」
「ありがとう。夢だったの。」
「夢?」
「一生に一度は人間と話したいって思っていたの。願いが叶って嬉しい。」
「夢は大切だよね。」
「うん。」
「夢はうん、いくつになっても大切だ。」
「私たちは、満月の夜にだけ話すことができるから、本当にチャンスは少ないし、人間は私たちキライだし。」
なるほど、それで彼女は月を眺めていたのか。
僕は考えてみた。
人間はネズミをキライだろうか?
「そんなことないよ。君たちを好きな人もたくさんいるよ?」
「あまりそう感じたことはないけれど。」
「そうか、そうだよね。確かに、君たちはあまり好まれないのかもしれない。うん。ゴメン。」
「なんで謝るの?あなたは私と話をしてくれてるし、きっとその好きな人の一人なんだよね?」
軽く首をかしげて彼女は僕に尋ねた。
そのまっすぐな姿を見て僕は、まさに本当に彼女のことが好きになった。
「もちろん。」
僕は答える。
まっすぐさに動かされない人間なんていない。
いないと思いたい。
少なくとも僕は動かされた。
そうして彼女は笑った。
今度は絶対にそうだ。
そう、彼女は、きっと、笑ったのだ。
僕はそのネズミのことをもっと知りたいと思う。
好きな相手のことは、たとえば辛く哀しい心持ちになったとしても、出来うる限り知りたいと思うものじゃないだろうか?
いや自分だけかもしれない。
どちらにせよ僕は、彼女のことをもっと知りたいと思った。
だから聞いた。
「ねぇ、君はもう他に夢はないのかい?」
「あるよ。」
「なに?」
「恋をすること。」
「え?」
「私ね、他のネズミより鼓動が速いみたい。」
「ゴメン、どういうことだろう?」
「心臓の鼓動が奏でるリズムの数には限りがあるの。」
〝心臓が奏でるリズム?〟
なんて素敵な喩えを言うネズミなのだろう。
その言葉を心の中で反芻していると、彼女は続けてこう言った。
「私は他のネズミの3倍は鼓動が速いの。心臓を持つ生き物の鼓動は、どの生き物も同じ数しか刻めない。ネズミは元々すごく鼓動が速いから、短い時間しか生きられない。私はでもそんなネズミたちより3倍も速い。きっとこうやって満月の夜に話せるのも、みんなとちょっと違うからかもしれない。だから私はあっという間に知恵をつけて、きっとあっという間に死んじゃうんだ。」
僕はなんだかこの初めて会ったネズミと、昔どこかで会ったことがあるように思った。
昔から知っている大切な人の死を、宣告されたような衝撃を受けた。
言葉に詰まる僕に彼女は言った。
「恋をしたらきっと私は、あっという間に死んじゃうんだろうな。だって恋の鼓動の速さはもっと速いんでしょう?」
その明るく嬉しそうな言葉を聞いて、やっと話せるようになった。
「うん、速いよ。そうしてたくさんの想いが身体中に巡るんだ。」
「想いが身体中を巡るの?」
「そうだよ。素敵だろう?」
僕は心を込めて笑顔で言った。
彼女はその瞬間、大きな瞳をキュッと閉じたあと、ゆっくりと瞳を開け、月を見上げてから僕を見た。
「ありがとう。」
「ありがとう?」
どういう意味だろう?
首をかしげる僕に彼女は笑顔で答えた。
「夢がまた叶ったから。」
彼女は笑った。
そうしてそのまま金網の柱を降りて、サヨナラも言わずに排水溝の中へと消えていった。
おそらく彼女はもうすぐ死んでしまうのだろう。
身体中にたくさんの想いを巡らせて。
〝夢は叶うか…。〟
僕は空を見上げた。
月が薄い雲の向こうで、濃紺の空を背に光輝いていた。
Fin