色々なことをやった一日に感じたけれど、目先メソッドに起因するような『伝えるべきことがあるかないか』ということが、自分にとっては無為な一日であったか有為な一日であったかを決める、大きな差であるのだと理解した。
そう、今日、ぼくは、無為に過ごしたと実感したのだ。
動いた数ではない、形にした数ではない、数分でもいい、ひょっとしたら数秒でも、しっかりと使って生きてその在り様を認知した瞬間があったのならば、有為な一日になったのかもしれない。
実際は、台無しに感じたり(本当は台無しにもならないし無駄にもならないのにそう思ったり感じたり)することがあると、あっという間にすべてが無為な一日に思えてくる。
ネガティブは強いから、怒涛のように侵食してくる。
有為な瞬間は確かにあったのに消えてゆく。
気づいたのだから、もっと開き、もっと使い、もっと世界と共に創ることへ向かわ、なければならない。
前に言われた。「~しなければならないって言うのはやめて」と。ぼくは返す。「誰かに云っているのではない、自分に云っている」。だれかにそのような言葉はよっぽどのことがない限り日常生活では使わないようにしている。記憶している限りだとない。脚本には書いた。「君は物語を書かなければならないよ」と。でも誰かには言わない。自分には云う。しかし「私の前ではその言葉を使うのをやめて」と言われたので、更に気を使うようにはなった。あるいはそれに準ずる言動があるかもしれないから。
確かに、誰かを変えることを出来ないのは、人生の長い時間を過ごした人々と自分に教わってきた。でもぼくはかえたい。
はたして自分にも云うべき言葉かどうかは分からなくても、これだけは解る。
「物理を無視してはいけない」
心理も物理で、世界を動かす。
だって世界の一部である己を動かすコトワリだから。
己が変われば世界が変わる。
無為に生きたと思っていたぼくの、有為に変えた気づきを記す。伝える。
愛川武博
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by moving_sheep
| 2024-03-18 22:48
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